小さな「回れ右」であっても/渡辺真太郎師
エレミヤ36章21〜23節、II歴代誌12章5、6節
道を間違った時は、悔い改めて回れ右をし、神様のほうを向きましょう。戻らないまま進み続けてはなりません。たとえ心が拒絶しても、主の元に帰る決断をするのです。私たちは時として主の導きに同意できない時があります。しかし、へりくだり悔い改めて進み直すなら、そこに主の優しい目と愛の抱擁があるのです。エホヤキム王はエレミヤの預言を破り、暖炉にくべていきました。行動で主への反逆を現すことは、絶対にしてはなりません。結局、南ユダは滅びに向かってしまいます。レハブアム王は、試練を与えられた時、罪を認め主の元に戻りました。弱体化した王国がこの悔い改め一つで存続され、その血はイエス様へと繋がっていくのです。たとえ失敗しても、「良い所を見てくれる」主の元に戻りましょう。そうすれば、私たちを通して主の計画が必ず成就します。まだ問題を抱えていたとしても、主は向きを変えたこと自体を評価してくださいます。私たちが救われた時も、小さな決断により永遠のいのちをいただきました。小さな回れ右の向こうに、人生の祝福と成就があるのです。
(2024.6.30)
神に至る道/渡邊ミドリ師
ヨハネ14章1〜14節
御子イエス様以外に、天地万物を作られた父なる神に会われた人はいません。主イエスを通ってでなければ、誰も父なる神の所に行くことはできないのです。神に至る道は、創造の始めから、天から下に設けられた道です。主はご自分の教えに従った者には、到達する希望を与えてくださいます。主イエスは、住まいを用意しに行き、再び戻って来られ、迎え入れてくださるのです。主イエスを見ることは、父なる神を見ることであり知ることです。御父と御子は完全に一つなのです。旧約では神は見て知ることができる方ではありませんでした。主イエスによって、それが変えられたのです。主は、業を見て信じるものではないと言っていましたが(2:3)、ここではそれを勧めています。まことの信仰の道を選ぶためには、きっかけは何であっても「信じる」必要があるのです。そして、イエス様を信じる者は、イエス様よりもさらに大きな業を行うとも言われました。現代の私たちもまた、聖霊の導きを受けながら、大いなる業を行うことができるのです。
(2024.6.23)
父の愛/渡辺統神学生
ルカ15章20節
これはイエス様が教えてくれる父親像です。この父親は、恐らく好き勝手に生きるために出て行った弟息子を心配して日々祈ったことでしょう。自分だけでなく子どもの人生をも神様に委ねることが大切です。そうすれば、神様は子どもの人生に働いてくださるのです。そして父は、息子の悔い改めを愛を持って受け入れました。受け入れてもらえないかもしれないという息子の不安を打ち消すかのように、駆け寄って口付けしたのです。これは神様と私たちの関係を現しています。神様はいつでも待っていてくださいます。悔い改めるなら、想像を超えた愛で包んでくださるのです。しかし父のため仕えてきた兄は怒りを爆発させます。自分はやるべきことをやっていたという思いで傲慢になり、弟を赦せなかったのです。兄は、いつも父親の側にいて毎日恵みと祝福を受けていたことを見落としていました。父親は優しく兄息子に愛を思い起こさせます。私たちも、優しく神の愛を思い起こさせる者となりましょう。弟のようにならず兄のようにならず、この父に習うことこそ、主イエスが示されたことなのです。
(2024.6.16 父の日礼拝)
栄光の道/渡邊ミドリ師
ヨハネ13章30〜38節
十字架の意味を悟ると、自分の罪がよくわかるようになります。十字架刑は恥ずべき死の道でしたが、主イエスにとっての十字架は栄光の道だったのです。これは新しい戒めの始まりです。最初の掟は十戒でしたが、主イエスの自己犠牲による愛の道によって全世界に救いがもたらされたのです。主はご自分が弟子たちを愛したように、互いに愛し合いなさいと言われました。自分一人が救われただけでなく、一致して福音を宣べ伝えることは私たちの役目でもあります。主が彼らに示された愛を思い出し、互いに助け合いましょう。信仰からしか真の愛は生まれないのです。主が教会に求めているおられるのは共同体としての愛です。教会が愛し合わなければ世界宣教はできません。ペテロは純粋な思いで命をも捨てると言いましたが、これから起こる苦難への理解度は足りませんでした。彼のすべてを変えたのは主イエスの復活です。圧倒的な十字架の主の愛を知り、愛に目覚め、励まされ、驚くべき勇気が湧いたのです。私たちも、新しい掟に従い、互いに愛し合いましょう。
(2024.6.9)
主の愛の前に隠せるものはない/渡邊ミドリ師
ヨハネ13章21〜30節
主イエスはご自分の死を知っており、それを握りしめながら最期の晩餐をしていました。それが最期だということを最愛の弟子たちは気づいていないばかりではなく、誰が一番偉いかという大変幼稚なことを話していました。主イエスはここで裏切る者の名前を言わず、パン切れを浸して与える者、と言い、罪に対しての悔い改めを促したのです。しかし、そこまで言っても弟子たちには分かりませんでした。信仰を持っていたにも関わらず、ユダの聖徒らしい振る舞いを信頼していたため見抜けなかったのです。彼らが本当にすべてを理解したのは主イエスの死、十字架、復活の後でした。驚くべきことですが、人間とはそのようなものなのです。ここに霊の戦いがあり、光と闇、神と悪魔の対立があります。神の業が働く所には、サタンも必ず働くのです。何が正しいかを見極めるには、本当に祈りの力が必要です。祈りは私たちの武器なのです。御言葉と祈り、信仰を持って再臨に備え、主を待ち望みましょう。
(2024.6.2)
ダビデの悔い改めから学ぶ/渡辺統神学生
詩篇32篇
この箇所は、ダビデがバテ・シェバ事件(IIサム11〜12)を悔い改めた時の詩です。赦されることの大きな恵みと喜び、告白しない罪がどのような重荷であるかがわかります。神に隠せる罪などありません。まず、神に告白することが第一歩です。ダビデは、神様はすべての必要を知っておられ、必ず今の状況を変えてくださるという確信を持っていました。そして祈りには力があるということを知っていたのです。神様は、あなたの祈りを聞きたいと思っていてくださいます。ダビデのように、どんな時でも絶えず祈りましょう。神は私たちの隠れ場所、心の拠り所です。そんな人生で一番安全な場所があるのに、何でも自分の力でやろうとしていないでしょうか。神様は、私の所に来なさいと言ってくださっています。神様に信頼し、人生を喜び楽しむのです。ダビデは自分と同じ道を行き苦しむのではなく、祈りの中で悔い改め、安心な所に逃げ込み、人生を導いていただくよう教えているのです。神様への感謝をもって、悔い改めから始まる恵みをいただきましょう。
(2024.5.26)
イエス・キリストの証人/渡邊ミドリ師
使徒1章1〜11節
主イエスは復活後40日間弟子たちに姿を現し、彼らが地上で成すべきことを指示されました。これは私たちへの命令でもあります。第一に、神のための働きを実行せよということです。主イエスは今、天上で福音宣教をする者をご覧になり、助け、再臨の備えをしておられるのです。第二に、聖霊に満たされなさいということです。弟子たちは、召天前の主の御言葉を信じ、一致をもって熱く祈り、聖霊を受けました。この時こそ新時代の幕開けです。現代の私たちも、聖霊の力とご臨在を経験する素晴らしい特権をいただいているのです。第三に、主の証人となるということです。主を語り救いを語ることこそクリスチャンの善です。福音がユダヤ人だけのためではなく全世界に拡大されるという主の言葉は四福音書すべてにあります。人々が滅びることがないよう、私たちは福音を語り告げ、主の証人として生きるのです。
(2024.5.19)
モーセと母/渡邊ミドリ師
出エジプト2章1〜10節
母の日の今日、モーセの母ヨケベテから学びましょう。彼女は、危機に対して動揺しませんでした。エジプトではヨセフを知らない新しい王が君主となり、最初は70人ほどだったユダヤ人は、エジプト人が恐れるほどの勢力で増えていきました。乗っ取られることを恐れたエジプト人は、ユダヤ人に重労働を課し、力をなくさせました。そして男の子が生まれたら殺せと命じられていた時、モーセが生まれたのです。「かわいいのを見て」(2節)とは、原語では「神の目にかなった」という意味です。ヨケベテは、それを見抜いてその子を隠し、人を恐れず王にそむいて神の御手に委ねたのです。それは、その子は神の摂理によって生まれ、必ず主が助けると信じていたからです。まことの信仰は、危機的状況でも神の摂理を信じることです。その時、すべてに主のご臨在を見るのです。これからの世界は、危険なことがたくさん起こります。私たちの武器は祈りです。主の目と心が私たちにあるのですから、動揺することはないのです。
(2024.5.12)
仕える者/渡邊ミドリ師
ヨハネ13章12〜20節
主イエスは弟子たちの足を洗った時「何をしたか、わかりますか」と言われました。これは問うているのではなく、弟子たちに模範を示したこと、あなたがたも同じことをしなさいということを、わかりなさいと仰っているのです。十字架の寸前にも、弟子たちは誰が一番えらいかと議論していました。言葉ではなく、劇的な方法によって彼らの弱さと信仰を修正されたのです。「仕える」ということは、クリスチャンにとって最も偉大なことであり、最も成し難いことです。だからこそ、最期の言葉として与えられたのです。足を洗ってもらっても、主を否定する人がいる、皆裏切る、ということを主は知っておられました。そして主は、ユダにも語りかけておられたのです。主が父なる神のご計画を全うされ、十字架につかれたことで、私たちは御国への凱旋の希望を持つことができるのです。主の愛を知らないなら困難を、知るなら祝福を受けます。私たちは、従順に仕える者となりましょう。
(2024.5.5)
主は望まれることを成し遂げ言われたことは成功させる/渡邊ミドリ師
イザヤ55章11節
これは2010年、みもみキリスト教会に与えられた御言葉です。必ず神は望まれることを成し遂げてくださると信じ従ってきたことで、本当に数多くの奇蹟を見てきました。大切なのは祈りです。様々なことを成し遂げるためには、皆で祈ることが不可欠です。家庭でも祈りの時を持ちましょう。それこそが神様の御心を動かすのです。また、苦難の時には御言葉が支えとなります。与えられた御言葉に「はい」と応答して行動するのです。現代に生きる私たちが主にお会いするには、聖書しかありません。たえず祈り、御言葉を読み、それに従って行動するのです。ただ御言葉を読むだけでなく、実践する者となりましょう。
(2024.4.28 39周年記念礼拝)
愛を選ぶ/渡辺統神学生
Iコリント16章14節、出エジプト23章5節、ヨハネ21章15〜17節
愛は神から出ています。私たちはそれにより互いに愛し合うことができるのです。しかし、うまくいっている時は愛を選びやすいですが、そうでない時は難しいものです。まず、愛することにベストを尽くしましょう。神様の愛の中に存在している私たちが愛を選ぶ時、周囲にその愛が流れるのです。プリスキラとアクラは、アポロの可能性を信じ、彼を愛することを選んだことにより、アポロの可能性を解き放ち、伝道をさせたのです。そして、他者と共に愛を選びましょう。お互いが愛を選ぶのです。恨んでいる人のロバが下敷きになっている時は、関係を修復し、2人で助け起こすのです。どんな相手でも救いの手を差し伸べられる人になるのです。一番大切なことは、イエス様の愛を忘れないということです。キリストの愛をもって仕え合うのです。ご自分を裏切ったペテロに、3回私を愛しますかと聞かれた主は、今日、私たちにも「わたしを愛しますか、わたしを信じますか、わたしに戻りますか」と聞かれています。信じます、愛します、と応答し、一歩を踏み出していきましょう。
(2024.4.21)
この意味がわかりますか/渡邊ミドリ師
ヨハネ13章1〜11節
ここからは主イエスから弟子たちへの告別のメッセージです。凝縮された残りわずかな時間の中で、今、ご自分がしていることを理解するよう何回も示されています。主イエスは弟子たちの足を洗いますが、これはユダヤの習慣では、家に入る時、しもべが担っていた役目です。主は、この意味が今はわからないがいずれわかると仰いました。それは、ペンテコステで与えられる聖霊によってわかるようになるということです。そして、上着を脱ぎ、弟子の足を洗い、再び上着を着けることで、十字架の死と復活を示されたのです。そして「地上にある限り、罪との戦いがあるが、私が聖める」と仰っているのです。私たちも、主イエスがしてくださることに従い、「はい、私はそれを受けます」と言うことが大切です。クリスチャンになれば、聖霊が罪を示します。聖められたものが御元に上げられるのです。私たちも、霊的な聖めをいただきましょう。
(2024.4.14)
聞いても信じない者と信じる者に与えられる恵み/渡邊ミドリ師
ヨハネ12章36〜56節
十字架の道が迫っている時、主イエスは、光のあるうちにご自分を信じるようにと最後の招きをしました。しかし、ユダヤ人たちは信じようとしませんでした。主イエス誕生の700年も前、イザヤはそのような者たちが多いことを預言していました。霊的に盲目な人は、御言葉を聞いても奇蹟を見ても、理解することができないのです。すべての人が信じなかったわけではありませんが、中には会堂から追放されることを恐れ、信仰告白をしていない人もいました。アリマタヤのヨセフ、ニコデモもそのような者でしたが、十字架を見た時、信仰に勝利し、追放や死を覚悟して信仰を表明しました。弟子たちも、復活の主にお会いし、別人のように変わり、迫害も死も恐れない信仰に立つようになりました。私たちも、信仰生活の中で二択を迫られることがあります。どのような時も、主イエスに従う道を選びましょう。本物の信仰は恐れをなくし、人を大胆にするのです。信仰の確信をもって、主の道を全うしましょう。
(2024.4.7)
再会の喜び/渡邊ミドリ師
マタイ28章1~10節
主イエスの復活の最初の目撃者は、十字架の下で主イエスの最期をずっと見守っていた女たちでした。彼女たちに御使いが語ったことは、私たちへの言葉でもあります。一つは、恐れてはならないということです。主イエスは既に蘇りについて語られており、彼女たちはそれを聞いて知っていたはずです。空(から)の墓こそ、復活の証明だったのです。二つ目は、行って伝えなさい、ということです。人類史上あり得なかった、喜ばしい、素晴らしい奇蹟である復活を伝えることこそ、私たちの成すべきことなのです。そして女たちは主イエスと再会します。主もまた「恐れてはなりません」と言われます。それはインマヌエルと同じ意味です。私はいつもあなたと共にいる、だから恐れることはないと仰っているのです。死は終わりではなく、新しいスタートラインに立つということなのです。私たちも、主がいつも共にいてくださるという思いを持って生きましょう。
(2024.3.31 復活祭)
その時が来ました/渡邊ミドリ師
ヨハネ12章20~36節
主イエスはここで、人の子が栄光を受けるその時が来たと言われました。ギリシヤ人が訪ねてきたことで、選民イスラエルのためだけではなく異邦人、全世界の人に救いを与える十字架の時が来たことが示されたのです。主イエスの十字架の死がなければ全人類の救いは成りません。それは避けられない神のご計画なのです(創3:15)。何事にも動じないイエス様が心を騒がせているのは、恐れているからではありません。死は人間に罪をもたらしたサタンによるものです。神の御怒りと呪いが、主イエスお一人に転嫁され、罪人として御父と断絶することになります。それが一番の苦しみだったのです。その心の騒ぎを治めるため、主イエスは神に祈られました。神の御声が聞こえても、群衆はそのことを理解できませんでした。サタンは主イエスが救い主であることを気づかせまいとします。私たちは御言葉を聞いたらそれを信じ、光の子として歩みましょう。
(2024.3.24)
神に選ばれた人として/渡邊ミドリ師
コロサイ3章12~17節
パウロはかつて自分の知恵や知識、信仰が正しいと確信していましたが、復活の主イエスに打たれ、間違いを知り改心します。それは一方的な神の愛による選びでした。パウロはクリスチャンを「神に選ばれた者」と言っています。私たちには、選ばれた者としての責務があるのです。教会運営の中で、信仰の一致のためには、日々神によって矯正されていることを知る必要があります。主はご自分が創られた人間を、ご自分のものとして受け入れておられます。私たちには原罪がありますが、主イエスを信じた時、御霊が内住し、その臨在の中で覚醒していきます。造り主の形に似せられ、ますます新しくされていくのです。御霊が内住した人は、周囲に調和をもたらします。愛はすべてを結ぶ完全な帯です(14)。「結ぶ」とはギリシャ語でボンドです。神と人、人と人との関係を接着剤のように結びます。キリストの平和が、私たちの心を支配するよう求めましょう。
(2024.3.17)
過去より今でしょ!/渡辺真太郎師
I歴代誌9章19~29節
ここに登場する者たちは、大きな裁きを受け滅ぼされた反逆者コラの子孫でした(民数16)。彼らが聖所で用いられているのは、神が過去ではなく彼らの心をご覧になり、お認めになったからです。神は奉仕をする者を聖め選び、訓練してくださるのです。あらゆる事柄から学ぶ柔らかい心を持ちましょう。彼らの働きは、目立つものではありません。しかし奉仕は主に近づいていく手段です。上手くいかない時は、主が私たちを祝福の器とするため研ぎ澄まそうとしてくださっているのです。そこから学ぼうとする人は、人生に大きな違いが出てきます。できないと言わず、どうやったらできるかを考え、学び、前に進みましょう。どんな小さなことにも全力を注ぎましょう。それは時として大きな労力を要します。忠実さが試され求められているのです。誰も見ていなくても、主がご覧になっています。忠実さは将来の土台となり、主はそれを広げようとされています。そしてその上に祝福を積み上げてくださるのです。
(2024.3.10)
パーム・サンデイ 棕櫚の日曜日/渡邊ミドリ師
ヨハネ12章12~19節
エルサレムに向かうイエス様を、大群衆が喜び賛美して出迎えました。彼らはラザロの奇蹟を見たり話を聞いたりし、この人こそ救い主かもしれないと思っていたのです。しかし、ローマの圧制に虐げられる苦しみからの解放者として見ている人もいました。彼らの信仰は、イスラエルの王としてのメシヤ預言に基づいていました。「ホサナ」とは、今私たちを救ってください、という意味です。彼らは本当に短い間に、イエス様を十字架につけろと叫ぶ者となりました。信仰によるのではなく、一時的に惹かれただけだったのです。華々しく活躍する人にすぐ期待してしまう人は、物事を見誤りやすいのです。この世においては、絡みつく罪の結果、通らなければならない問題が数多くあります。しかし、それに必ず勝利するのが主イエスの救いなのです。本当の意味でホサナと賛美する者となりましょう。
(2024.3.3)
本当の正義と偽りの正義/渡邊ミドリ師
ヨハネ12章1~11節
ここにはベタニヤのマリヤに見る本当の正義と、ユダの偽りの正義との対称があります。マリヤが注いだ香油は、当時の一年分の収入と同じくらい高価なものでした。マリヤはいつもイエス様の話をじっと聞き、十字架の死と復活について知っていたのです。実際のラザロの蘇りを通して、イエス様の語られていることを悟り、確信したのでしょう。そしてイエス様以外にこの香油を必要とする方はいないとわかっていました。イエス様への愛が、最高のものを捧げたいという思いとなったのです。ユダの言葉は一見正しいことのように聞こえますが、その裏には不正な思いがありました。今日のクリスチャンの中にもそのような人はいます。私たちも、偽りの正義に惑わされることが非常に多いのです。しかし、御言葉が私たちに内住していれば、偽りを見抜く力が与えられます。御言葉を信じたなら、ただ聞くだけではなく、マリヤのように実践する者となりましょう。
(2024.2.25)
神に敵対する者/渡邊ミドリ師
ヨハネ11章45~57節
ラザロの病・死と復活により、涙と絶望が笑顔と喜びに変えられました。しかし人々は、奇蹟を見て主イエスを信じる者と、憎しみをますます募らせ主イエス殺害にまで向かう者とに分かれました。これはこの時代の話だけではありません。なぜ人はこのように二分されてしまうのでしょうか。奇蹟を見ても信じられない人はいます。出エジプトの民は、紅海が割れるほどの奇蹟を見ても、すぐにそれを忘れ偶像を造りました。ツァラアトに冒された10人の人の中で、主イエスの癒しに感謝し戻って来たのはただ1人だけでした(ルカ17:11~19)。奇蹟は、信仰を持つためのものではありません。信仰には、奇蹟以上のものがあるのです。大祭司カヤパは、全人類の罪のために死なれる主イエスについて、無自覚に預言しました。神は、相応しくない者を通してさえ語られるのです。信仰者だけに働かれる神ではない、ということに希望を持ちましょう。
(2024.2.18)
ラザロのよみがえり/渡邊ミドリ師
ヨハネ11章30~44節
ここには人の子として神のご計画に従うため遣わされたイエス様と、神の子として御業を成すために来られたイエス様の姿がともに現れています。イエス様が霊の憤りを感じ、心の動揺を覚えられ、涙を流されたのは何故でしょうか。それは、目の前の者たちではなく、死の問題と向き合っておられたからです。私たちのうちに罪が入った時、この世に死が入り、私たちは死ぬ者となりました。人類は死による悲しみを背負い続け、それは再臨まで繰り返されます。主イエスは、愛する人を失う悲しみ、背後にいる悪しき霊に対しての憤りを感じられたのです。イエス様は十字架によって死を滅ぼし、よみがえりのいのちとなって復活されました。大声で叫ばれたイエス様の御声には、サタンを退ける力がありました。イエス様はその御業を通して、人々が神の栄光を見ることができるようにされたのです。私たちも、復活のいのちをいただいていることに感謝しましょう。
(2024.2.11)
復活の生命──このことを信じますか/渡邊ミドリ師
ヨハネ11章17~29節
人間が不従順の罪を犯したことによってこの世に死が入り、神と断絶しました。復活とは、人生最大の敵・死に勝利したということなのです。イエス様はマルタが復活について正しい理解を持つよう導かれました。マルタの信仰は素晴らしく、イエス様が兄弟ラザロの病を必ず癒してくださると確信していました。しかし、死後4日後に来られたイエス様を出迎えた彼女には、もっと早く来てほしかったという思いと信仰心がせめぎ合っています。イエス様はマルタに、ラザロはよみがえると告げられました。マルタは終わりの日のよみがえりのことだと思いますが、イエス様はラザロが「いま」よみがえることを信じるかと重ねて聞かれます。それに対しマルタは、はいと言い、主イエスが世に来られる神の御子であることを宣言したのです。これこそ本当の信仰告白です。私たちも、たとえ絶望的に見える状況にあってもこのような信仰告白ができる者となりましょう。
(2024.2.4)
病気と死 十字架と復活──神の栄光があきらかになるために/渡邊ミドリ師
ヨハネ11章1~16節
ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの家は、主イエスがこの世においてほっとするひとときを過ごせた場所でした。しかし、ご自分の愛する者、ラザロが重い病気になった時、すぐにでも癒すことができたにも関わらず、なかなか彼らの元に行かれませんでした。主はラザロの死を予告され、これは死で終わるものではなく、神の栄光のため、それによって御子が栄光を受けるためのものであると仰いました。ラザロの死と復活を通して、ご自分の十字架の道を示されたのです。主イエスが本当に神の栄光を受けたのは十字架でした。私たちも、クリスチャンであると言う時、十字架の救いと喜びを伝えなければなりません。また、イエス様が何度も殺されそうになったの見ていた弟子たちは、エルサレムに行くのを躊躇していました。私たちも正しいことに従うのをためらうことがありますが、どんな状況であっても正しさを選ぶなら、必ず祝福が与えられるのです。
(2024.1.28)
迫害下で示される真実/渡邊ミドリ師
ヨハネ10章32~42節
神の愛を知る者は神を語らずにはいられなくなりますが、語れば語るほど迫害は強まります。ですが、主イエスは迫害にあえばあうほど語り続け、真理を現されました。そこから教えられることは、まず御言葉に立つということです。主イエスは、ユダヤ人からの「神を冒涜している」という攻撃に対し、御言葉を引用して反論しました。傲慢な者に対しても怒らず、なお彼らが真理に目覚めるよう諭したのです。ユダヤ人たちは、主イエスが行った癒しなどの良いわざを目撃していても信じようとしませんでした。神を罵る者は罪責を負うという、彼らが主張する律法は、神の子を迫害する彼ら自身を罪に定めていたのですが、霊的に無知な者たちはそれに気づきませんでした。彼らはますます頑なになり、真理から離れて行ったのです。私たちが御言葉に立ち、真理を語り続けるなら、神はあらゆる攻撃を乗り越える力を与え、御翼の内に保護してくださるのです。
(2024.1.21)
信じる人と信じない人/渡邊ミドリ師
ヨハネ10章22~31節
主イエスがご自分は救い主であるということを明らかにし始めると、ユダヤ人たちは憎しみ・怒りを募らせました。彼らはまったく信仰をもっていなかったわけではなく、むしろ律法を守っていたにも関わらずです。主イエスを信じない人は、律法主義に陥り、偏った神観を持ち、十字架の死、復活、永遠のいのちなどを受け入れることができないのです。主は彼らを「神の国に属さない」と言われました。神から出た者は神の言葉に聞き従うからです。私たちは、信じる者とならなければなりません。信じる者は、主とお互いによく知る関係を持っています。主イエスは、ご自分は父なる神と一つであると言われました。そして私たちも主イエスと一つであり、その関係の中に入れてくださっているのです。主イエスの父なる神への信頼と同じように、私たちも主を信頼し、その素晴らしい特権、約束として与えられた永遠のいのちを感謝しましょう。
(2024.1.14)
確信する/渡邊ミドリ師
Iヨハネ5章13~15節
様々な災いが続き、いつ何時、何が起こるかわからない世にあって、私たちはいつも信仰の備えをしておく必要があります。ヨハネがこの手紙を書いたのは、クリスチャンとして理解してもらいたいことがあるからです。それは、私たちが永遠のいのちを「持っている」ということです。死んだら与えられるのではなく、既に持っているのです。そして、御心にかなう願いを神は聞いてくださるという「確信」を持つことが大切であるということです。神は私たちの人生のすべてをご計画されています。そして私たちが祈る時、既に答えを持っておられます。だから確実に聞かれるのです。「かなえられる」というギリシャ語(エコメン)は、「持っている」という意味でもあります。この新しい年に、教会が、私たち一人ひとりが、成すべきことを求め、確信を持って祈り続けていくことが大切なのです。
(2024.1.7)
主のみ言葉に生きる祝福の道/宋ダニエル師
申命記4章1~10節
ここでは、カナンの地に入るにあたり、どのように生活しなければならないかが記されています。これは新しい年をどのように迎えるかの教えともなります。まず、カナンの地に入って行き所有しなさい、すなわち「行動しなさい」と命じられています。祈りも勿論大切ですが、神の宣教は、私たちの行い・参加によって成ります。教会の中に留まらず、出て行って伝道する時、神が働いてくださり、それを体験する恵みと証しをいただくことができるのです。私たちが動く時、神様は用いるために祝福せざるを得ないのです。神は、私たちと共にいてくださいます。そして「土地を所有せよ」という神の契約が成就するのです。偶像は徹底的に排除しなければなりません。他の宗教だけでなく、家族やお金、美しさ、学歴なども偶像になり得ます。神様に頼ってすがる時、大きな祝福が与えられます。その祝福は自分だけでなく、隣人、国、世界へと広がっていくのです。
(2024.1.1 元日礼拝)