2人の老人の信仰(シメオンとアンナ)/渡邊ミドリ師
ルカ2章20~40節
ここには、主イエス・キリストの誕生を長年待ち続け、ついに神の約束の成就を見た2人の老人が登場します。老いたシメオンは聖霊によって、マリヤに抱かれた幼子を救い主と認めました。本当の信仰者の上には、聖霊がとどまっているのです。聖霊の導きを信じましょう。神は彼に、幼子を見、腕に抱く恵みをお与えくださいました。もう一人、日々断食と祈りを奉げ主に仕え続けた女預言者アンナも同じ祝福にあずかりました。どんなに年をとってもできること、それは祈りです。私たちも彼らの信仰に立って、祈り、聖書を読み、聖霊の御力を借りて歩む新しい年を迎えていきたいと思います。
(2016.12.25 クリスマス礼拝)
神が事を行う日/渡邊ミドリ師
マラキ書4章1~6節
ここにはイエス・キリストの来臨と世の終わりの審判という、祝福と裁きの預言が記されています。神は人類の歴史の中に介入されます。神が事を行うその日には、火によって終末の裁きが行われます。そしてこの世は、一人の幼子、主イエス・キリストを通して回復の道を示されています。神は正しい者と主に従わない悪しき者をはっきりと区別されます。義に立つ者は、どんな困難に遭っても圧倒的な勝利を得ることができるのです。油断せず、神の声を聞き、それを行うことが大切なのです。主イエスの来臨は、御使いの賛美とともに啓示されました。同じように、御使いの賛美とともに再臨と裁きの日がやってくるのだということを、忘れないようにしましょう。
(2016.12.18)
祝えない気持ちになっていませんか?/渡邊真太郎師
Iコリント1章4~9節
私たちは、毎日問題に追われています。それを解決することで頭がいっぱいになっています。しかし、困難が解決してから感謝するのではなく、困難があってもまず感謝することを学びましょう。パウロは自分がじっくり伝道し、慈しんで育て上げたコリントの教会が深刻な問題を抱えてしまったという報告を受けた時に、この手紙を書きました。その中で彼はすぐ問題に切り込むことなく、まず神の恵みのゆえに感謝したのです。パウロは困難な時にこそその先にある神の恵みとご計画に目を留めるという性質を獲得していました。感謝できない心には不満が生じ、神との間を妨げる毒となります。恵みの自給自足ができるように、自分を訓練することです。聖さと輝きの源はそこにあります。主イエスが与えてくださった恵みの資源に目を向けましょう。
(2016.12.11)
主イエスの誕生の約束/渡邊ミドリ師
ミカ書5章2~6節
イエス様が生まれる700年前、アッシリヤ、エジプトといった大国が対立する不安に満ちた闇の時代に、神は救い主の来臨をミカに託宣されました。クリスマスは永遠の昔から決定されていたのです。東方の博士たちは、この預言が必ず起こると信じ、行動し、その信仰の結果を目撃しました。これこそ創造主の大いなるご計画の成就なのです。私たちがいまなすべきことも、神はすでにご計画されていて、私たちが信仰によって行動することいつも願っておられるのです。このミカの預言は、イエス様の誕生によって、その支配が地の果てまで及ぶという約束でもあります。私たちがどんなに悩み苦難に陥っても、真の支配者は平和の根源です。いつも主が共にいてくださることを覚え、再臨を待ち、主の働きを進めていきましょう。
(2016.12.4)
インマヌエル─神の約束/渡邊ミドリ師
マタイ1章18~25節
聖書はクリスマスをどのように記しているでしょうか。第一に、クリスマスは神が準備されたものであるということです。天地万物の創造者である神が、死ぬ者となった人間を救うためにご計画されたのです(創世記3:15)。第二に、神の御子が人の子となった日です。イエス様の系図に罪深い者が多く記されているのは、イエス様の救いが罪人である全人類の救いであることを示しています。それは神の愛とあわれみによるものであり、その究極の愛が、イエス様の誕生と十字架の死なのです。イエス様は人間によってではなく、聖霊によってマリヤからお生まれになりました。人の心と霊と魂を新生させることができるのは、聖霊だけです。どんな試練の時にも、神は聖霊によっていつも私たちとともにおられることを覚えましょう。
(2016.11.27)
古い歴史からの教え/渡邊ミドリ師
II列王記1章1~18節
なぜイスラエルの古い歴史を学ぶことが私たちの益となるのでしょうか。それは、どんなに時代が変わっても神は同じ神であり、原罪を持った人間は、何千年たとうと同じことを繰り返して生きているからです。悪王アハブの息子アハズヤの過ちは、彼だけではなく、私たちも陥りやすい罪なのです。その過ちとは、自分自身が不信仰であることに気づかないことです。彼はすぐそばに真の神がおられるにも関らず、悪しき異教の神に自分の病が治るかどうか伺いを立てようとします。彼は預言者エリヤを通して裁きの宣告を受けますが、間違いを認めて悔い改めず、自分の考えを決して変えませんでした。私たちは罪により身を滅ぼしたアハズヤを戒めとし、祈りの力をもって、主に従っていきましょう。
(2016.11.20)
偉いという言葉が意味するもの/渡邊ミドリ師
マタイ18章1~5節
天国では誰が一番偉いのかと問う弟子たちに、イエス様は、悔い改め、幼子のようにならなければ、決して天国に入ることはできないとおっしゃいました。天国で一番になるということよりも、天国に入れるか、ということを考えるほうが大事なのです。幼子は無邪気で、地位、名誉、権力などに対する欲がありません。これこそ天国の民が持つ心です。また、幼子は自分を守ってくれる人を本気で求め、頼ります。私たちはイエス様に対してそのようにしているでしょうか。偉くなりたいなどとは考えないことです。教会の中で互いに仕え合い、自分たちの持っている賜物を活かし合う時、イエス様はそこにいてくださいます。心を入れ替え、向きを変えて、主に従って行く時に、私たちは天国に入るという特権をいただけるのだということを確信したいと思います。
(2016.11.13 成長祝福式)
地上の限りある歩み/渡邊ミドリ師
I列王記22章37~53節
この書には沢山の王が登場しましたが、神に従わない王たちの最期はいずれも悲惨で不名誉なものでした。ヨシャパテは多くの改革を起こした善王でしたが、唯一、罪に対して見て見ぬふりをするという過ちを犯しました。それが彼の生涯の大失敗となるのです。彼は問題が起こることを恐れ、解決の手段を誤ります。その弱さと間違った優しさが、民を滅びへと導いていくのです。彼は北イスラエルと友好を結ぶため、アハブの邪悪な娘と自分の息子ヨラムを結婚させます。そのためにヨラムは信仰から離れ、道を外れてしまうのです。立派な信仰を継承させるのは難しいものですが、罪の歩みはたやすく受け継がれていきます。一生の終わりにどのように主と顔を合わせられるかを日々思いながら、信仰を全うしていただきたいと思います。
(2016.11.6)
あなたは誰に仕えていますか?
~ソステネの生き方から学ぶ~/渡邊真太郎師
使徒18章12~17節、Iコリント1章1~2節
人によって引き起こされた災難に巻き込まれるのは、自分に原因のある試練よりも受け入れるのが困難です。そんな時は、その災難を見つめるのをやめ、主に焦点を合わせることです。サタンは人に神を呪わせ、自分を崇拝させようと必死になっています。私たちは何があってもキリストを選びましょう。神に疑いを持ってはなりません。会堂管理者ソステネは、パウロの代わりにかつての仲間たちから暴行を受けますが、信仰を捨てるどころか、パウロと共により一層キリストに近づいていくのです。自分によらない試練は、主に認められた証拠と考えましょう。人に失望するような事件が起きた時には、さばく心を捨て、自分は主について行く決断をするのです。神は私たちが一番輝く方法をご存知です。災難のように見える出来事の向こうに、将来の輝きがあるのです。
(2016.10.30)
主からの警告─偶然はない/渡邊ミドリ師
I列王記22章26~40節
まず神の御心を求めるようにと言いながら、アハブと共に戦いに出てしまったヨシャパテは、不従順の罪に定められます(II歴代誌19:2)。不従順の罪とは、軽率に自分の考えで行動することです。彼は善王でありながら、この軽率さの故に結果的に大きなマイナスを生むのです。アハブの擬装によってイスラエルの王だと誤認されたヨシャパテは、アラム軍の標的となった時、主に助けを叫び求めます。主はそれを聞き、即座に彼を救われました。そして人間的な策によって生きのびようとしたアハブはアラム兵が何げなく放った矢によって射抜かれます。これは偶然ではなく、神の御手によるものです。主はアハブに何度も悔い改めを迫りましたが、彼はヨシャパテのようには主を求めませんでした。私たちにも、主を求める叫びが必要なのです。
(2016.10.23)
まず主のことばを伺う/渡邊ミドリ師
I列王記22章1~28節
アハブ王から共に戦うことを持ちかけられたユダの王ヨシャパテは、一つの条件を出します。「まず主のことばを伺う」ということです。私たちクリスチャンは、自分の考えよりも主の御心を優先することを神から求められています。日常生活の中で、主に聞くということが当たり前になっていなければなりません。そのためには、日々聖書を読み、祈り、神と向き合い会話をすることです。真の預言者ミカヤは、口合わせを強要されますがそれを拒否し、攻め上れば王が死に、イスラエルが混乱することを預言し、400人の偽預言者の背後には悪霊の働きがあることを告げます。私たちもミカヤのように、信仰の御旗をしっかり掲げ、主の証人であることを表明することが大切なのです。この地上で主の御言葉をはっきりと語り告げ、御言葉を曲げようとする人たちと戦っていきましょう。
(2016.10.16)
苦手な人の良い助言/渡邊ミドリ師
I列王記21章16~29節
誰にとっても悔い改めることは難しいものです。悔い改めを妨げる大きな要因は、神を敵とすることです。アハブ王は神から来る忠告を語るエリヤを敵としました。私たちも正しいことを言う人に苦手意識を持ち、お世辞を言って取り入る人を味方だと思ってしまいがちです。愛をもってはっきりと忠告をしてくれる人の意見を聞くことが、問題の解決と信仰のステップアップにつながります。アハブは死の宣告に驚いて悔い改めの姿を見せ、それにより神はアハブへの裁きを延期されました。しかし神は裁きを忘れられたわけではありません。罪に甘い方ではないのです。悔い改めを迫られたときには、それを素直に受け止め、聞く耳を持つことが大切なのです。
(2016.10.9)
貪欲の結果/渡邊ミドリ師
I列王記21章1~16節
この箇所には三人の人物が登場します。一人はぶどう園の持ち主ナボテです。彼は神からくる知恵を用い、王からの有利な申し出を退け、律法に従う正しい人でした。二人目は王アハブです。彼は決して邪悪な王ではありませんでしたが、優柔不断でわがままな性格が不信仰へとつながっていきました。彼は信仰が何かを知りつつも、妻や周りの人の言葉に流されていったのです。三人目は稀代の悪女イゼベルです。ここでの彼女の最も大きな罪は、宗教を利用したことです。律法を悪用し、正義を守るべき長老たちを巻き込み、偽証によってナボテを罪人にしたのです。アハブはこの妻によって堕落していきました。結婚と家庭は、信仰を正しく導く模範とならなければなりません。身近な者たちのために、道を踏み外さないように祈り、主からくる知恵と力、守りを求めましょう。
(2016.10.2)
苦しみの中で気づくこと、幸せの中で気づかないこと/渡邊ミドリ師
I列王記20章22~43節
神は苦しみや幸いを通して、ご自分こそ神であるということを示されます。悪王アハブは神のあわれみによって大勝利を得ますが、彼はそれを自分の力で成したように感じてしまいます。彼には神の御手が見えないのです。結果的には、それが彼の死を招きます。神が聖霊をもって忠告してくださった時、聞く心と聞かない心のどちらを持つかが信仰の差を生むのです。クリスチャンは自分の力を過信してはなりません。神の正義は、私たちの考える正義と同じではないのです。アハブは敵であるベン・ハダデを許しますが、神がアハブに求めたのは聖絶であり、悪を絶やすことでした。自分が立派なことをしたと思っても、主の御心に反することをするならば、良い結果を生みません。私たちも何が善か悪かを見極めるために、日々御言葉をたくわえ、聖化されましょう。
(2016.9.25 召天者記念礼拝)
聖書の「事実力」
~パウロの不屈の精神の源~/渡邊真太郎師
使徒14章8~22節
なぜパウロは幾多の試練の中で奮い立つことができたのでしょうか。彼を支えた土台は3つの「事実」です。一つ目は、神様はいつも味方であるということです。私たちがやがて神の御前に立ち、サタンに罪を暴かれる時、イエス様が弁護士となってくださいます。イエス様によって神を味方につけた人、それがクリスチャンなのです。二つ目は、イエス様が私の身代わりに死んだということです。それにより、死は終わりではなく、祝福の出発点となりました。主は私たちを愛し、永遠の幸せをくださったのです。三つ目は、イエス・キリストは確かに復活したということです。復活は、死の束縛がもはやないということの証明です。死を解決した方が、私たちとともにあります。この3つの事実によって、信仰の試練を戦い抜いていきましょう。
(2016.9.18)
立ち返る時/渡邊ミドリ師
I列王記20章1~22節
アハブは北イスラエルの王として盛名をはせましたが、異教の女イゼベルとの結婚によって偶像に傾倒し、道を踏み外します。しかし神はどんな悪い人間にも、立ち返る機会を与えます。アハブはアラムの王ベン・ハダデに脅かされ窮地に立たされた時、イゼベルの偶像を拝みには行かず、信仰ある長老たちを呼び寄せました。神は必ず、主の器をそばに置いてくださるのです。彼は非常にかたくなでしたが、助言に耳を傾け、教えられやすい心となりました。それで彼はベン・ハダデに立ち向かうことができたのです。信仰者は柔軟な心を持つことです。神に直ちに従えば、必ず主の御手が届くのです。私たちも立ち返りを求められた時には心から悔い改め、聖められ、いつでも主を待ち望む信仰を持つ者となりましょう。
(2016.9.11)
疲れ果てた時には/渡邊ミドリ師
I列王記19章1~21節
人間には、もはや限界と思えるような時が訪れます。このまとわりつく人間的な弱さを、エリヤはどのように乗り越えたのでしょうか。彼は一人になって神と交わりました。神は必ず霊的な休息を与えてくださいます。霊的な病は祈りによってしか治せないのです。神はエリヤに御使いを送って慰め、食べ物と水を用意し、新しい活力を与えてくださいました。その後エリヤが辿り着いたホレブの山は、モーセが十戒をもらった場所です。そのモーセとエリヤは、新約の時代にイエス様の前に現れるのです。これが神のご計画の素晴らしさです。神はそこでエリヤに、細い小さな声で語りかけ、新しい使命を与え、選びの信徒7千人を用意してくださいました。私たちも一人になって神と向き合う時を持ち、神の細い声に耳を傾けましょう。
(2016.9.4)
主は圧倒的な力を持つ/渡邊ミドリ師
I列王記18章25~46節
人間はなぜ平和を求めながらも戦いばかりしているのでしょうか。その原因は人間をコントロールし、悩ませ、悲しませ、争わせているもの、すなわち「偶像」の存在です。偶像は実在しない神であり、実在するのはサタンです。偶像の背後には、必ず悪しき霊の存在があることを知るべきです。私たちがエリヤのようにサタンに勝利するためには、御言葉の宣教にはげむことです。クリスチャンは神の言葉を預っています。神から預かったものは、神に返さなければなりません。価値あるものをしまっておいてはならないのです。偶像には御言葉はありません。神はエリヤの祈りに応えて干ばつを止め、雨を降らせました。実在する真の神にできないことは何ひとつ無いのです。
(2016.8.28)
あなたの判断がほめたたえられるように
~ナバルとアビガイルから学ぶ~/渡邊真太郎師
Iサムエル25章32~35節
よい判断力を得るためにはどうすれば良いでしょうか。第一に、神様の恵みを忘れないことです。そして与えることによって恵みが増し加わる、という神の法則を学びましょう。主の恩恵を覚えず、ダビデへの援助を拒んだナバルはその判断ゆえに滅びました。第二に、感情的にならず、話を聞く人間になることです。感情的な判断は、感情的な反応を呼びます。部下の言うことを聞いたアビガイルは、ナバルからダビデへの感情の連鎖に終止符を打ち、最悪の事態を回避したのです。第三に、あらゆる状況から謙遜さを学ぶことです。聖書、そしてイエス様の生涯は一貫して謙遜を教えています。へりくだりこそが正しい判断力の土台となり、神の祝福を呼ぶのです。アビガイルの良き判断を通して、神の御名があかしされました。私たちも、素晴らしい判断によって、主の栄光をあらわしましょう。
(2016.8.21)
中途半端な信仰/渡邊ミドリ師
I列王記18章14~24節
この箇所は信仰の戦いです。私たちにも戦いの時が訪れます。それは中途半端な信仰が立て直されるためです。私たちが一歩前に踏み出す時、真理につくか虚偽につくかの選択に立たされます。二つのものに同時に仕えることはできません。アハブとエリヤを共に主人としていたオバデヤも、バアルと真の神を両方礼拝していた民衆も、どっちつかずの信仰を正される時がきました。健全を求め、堕落を求めないことです。人は知らないうちに堕落していきます。民衆も、王国の腐敗やイゼベルへの恐怖により堕落へと流されていったのです。エリヤはバアルの預言者450人との戦いの場にあって、壊れていた祭壇と共に、よろめく民の信仰をも立て直すのです。主にある一人は多勢と同じです。悪を恐れず、真実に従っていきましょう。
(2016.8.14)
決断の時/渡邊ミドリ師
I列王記18章1~15節
エリヤの忍耐と訓練の三年間が終り、神の御計画の時が来ました。彼は主の命を受け、沈黙を破りアハブ王との対決へと向かいます。私たちにも決断を迫られる時があります。その時、自分の考えを優先すると道を外れていきますが、神中心に考えれば道が開けていくのです。アハブの側近オバデヤは、罪に塗れた宮殿の中にあって、神を恐れる敬虔な人でした。彼がイゼベルの手から預言者百人を救出したのも、アハブを呼びに行くよう命じられたのも、彼が迫られた決断の時でした。自分の知恵や人の言葉に頼らないでください。決断には勇気を必要としますが、恐れるべきは神のみです。主が大きな御業を行う時には、最も小さな器を動かします。私たち一人一人がその器であることを覚えましょう。
(2016.8.7)
主のことばのとおりにした/渡邊ミドリ師
I列王記17章1~24節
この世に悪が満ち、不信仰な者が多くとも、神はそれを見過ごされず、必ず神に従う者を興し、御心を実現されます。御心が実現されるためにすべきことは何でしょうか。第一に、主の命じられたとおりにすることです。預言者エリヤは非常に従順な人格であり、神の言葉に従うことに迷いを持っていませんでした。霊的な力をいただくにはそれこそが大事なのです。極貧のやもめの女も、エリヤを養うように命じられ、そのとおりにすることで祝福を受けました。第二に、主の命じられたことを優先することです。満たされたら従うのではなく、試練の只中でどう信仰を生かすかを主は問われます。私たちが主を第一にして従うとき、そこに大きな主のご臨在を示してくださるのです。
(2016.7.31)
罪意識の低さが招くもの/渡邊ミドリ師
I列王記16章21~34節
ここに記されている悪を成す王たちの歴史は、今の時代と何ら変わりません。トップに君臨した王とその子どもたちがいかに悲惨な最期を遂げたかを、列王記は語っています。原因は神への背信です。この世の業績や評価に心を向けてはなりません。主に対する姿勢こそが、その人の人生を決めるのです。オムリの子アハブは親の道にならい、無類の悪王となります。そして異教の街シドンから稀代の悪女イゼベルを妻に迎え、偶像崇拝に耽ります。罪意識が低いと、罪はさらに熟して大きくなっていくのです。サタンはいつも落とし穴を作っています。結婚、子育てには多くの罠があります。私たちはそれに陥らないよう、家庭生活を正し、御言葉の剣をもって対抗しましょう。
(2016.7.24)
信仰を全うする人生/渡邊ミドリ師
I列王記15章25~34節
信仰の生涯を全うするためには、何をしていけば良いでしょうか。第一に、毎日主の前に、自分の罪を清算することです。ヤロブアムの家系は彼の罪のゆえに根絶やしにされましたが、ダビデの信仰は子々孫々まで継承されていきます。ダビデも罪を犯しましたが、彼は日々、自分の罪を悔い改めたのです。私たちも朝に夕に自分自身を振り返り、主の前に罪を悔い改めましょう。第二に、なぜ自分がクリスチャンになったのかということを日々考えることです。私たちが永遠の命にあずかるという特権を得られたのは、自分のためにとりなしてくれた人がいるからです。誰もいない人には、イエス様が御座にあってとりなしてくださいます。私たちも日々の生活の中で、人をとりなしていく者となりましょう。
(2016.7.17)
信仰の目をどこに向けるかによって/渡邊ミドリ師
I列王記15章9~24節
私たちは信仰の目をどこに向けていくべきでしょうか。アサ王はその目をずっと神に向けていましたが、後に違うほうに向けていきます。彼は偶像を徹底的に排除し、民のために改革を行い、主の目にかなうことをしました。しかし晩年、イスラエル王バシャの脅威から国を守るため、神ではなくアラム王ベン・ハダデの力に頼ります。人としての策略は成功しましたが、主の目には不信仰な者とされます。主は試練を通してアサに悔い改めを迫り、アサは両足の重い病にかかりますが、その時彼は主ではなく医者を求めます。苦しみの時には、主の御心を探ることが大切なのです。世の中には、信仰の目を背けさせる誘惑がたくさんあります。私たちは、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さないようにしましょう。
(2016.7.10)
中途半端な信仰/渡邊ミドリ師
I列王記14章21~31節
信仰の成長によって主に喜ばれるには、どのようにすれば良いでしょうか。第一に、キリスト者としての責任を意識することです。ソロモンは異教徒の女をその美しさゆえに妻としましたが(ナアマという名は“美しい”の意)、道徳的にも宗教的にも間違った結婚は、息子レハブアムを偶像へと導きます。この罪の世で子どもを育てていくには、信仰が不可欠です。自分の愛する者たちが道をそれないよう祈り続けなければなりません。第二に、中途半端な信仰から立ち返ることです。いい加減な信仰は主の性質に反し、主の怒りに触れます。そして新生された永遠の命を自ら遠ざけることになります。私たちは選ばれ、神の所有とされた者です。主の栄光をあらわすために豊かに用いられ、御名を伝えていかなければならないのです。
(2016.7.3)
あなたに与えられている神の豊かさ/渡邊真太郎師
ヨハネ14章2節、エペソ1章3節
人はこの世的な豊かさを人生の基準にしてしまいがちですが、本当に価値あるものは神の豊かさです。今持っているものを基準に将来を決めないでください。神から来る豊かさを知ると、自分の人生の幅が神の幅になります。この世の限界に捉われ、この世の尺度で考えてはなりません。神は私たちのために、想像もできないような豊かさをご用意してくださっているのです。祝福という言葉に慣れてはいけません。あらゆる機会に注がれる神の大きな恵みを、リアリティをもって実感し、感謝しましょう。賛美は祝福へとつながりますが、つぶやきはサタンからの報いを呼びます。限られた人生におけるはかない物質的な豊かさではなく、イエス様からもたらされる目に見えない永遠の恵みに目を向けましょう。
(2016.6.26)
父の詩(うた)/渡邊ミドリ師
マタイ7章21~23節
主の御心を行うとはどういうことでしょうか。第一に、自分の人生の主権を父なる神に委ねるということです。偽預言者、偽教師たちは、実際に奇跡を起こし、言葉巧みに人を騙します。しかし、主を騙すことはできません。本物か偽物かを御霊の実によって判断するには、朝ごとに新鮮な思いで御言葉に親しみ、主の命令と掟と定めとを守り行うことが大切なのです。第二に、聖化の恵みを受けることを求めることです。自分が聖くないということを自覚している人は、イエス様の十字架の血潮による聖めを願います。聖霊の臨在を求め、御言葉によって生きることを願って主に祈り続けるなら、日々聖化されていく恵みを感じるようになります。それこそ、主が私たちに求めておられることなのです。
(2016.6.19 父の日礼拝)
理解出来ないことから得たもの/渡邊ミドリ師
I列王記13章11~34節
神は理解に苦しむことの中に、霊的な教えを忍ばせてくださいます。そこから得られるものの一つは、偽る者への対応です。素晴らしい働きをした「神の人」は、ここで一人の年寄りの預言者の嘘のために死ぬことになります。彼は不従順の罪を犯しました。偽りによって主に禁じられていた飲食をしてしまうこの箇所は、罪の始め(創世記3章)を思い出させます。神の命令は何があっても守るべきなのです。サタンは天使に偽装します。不従順にならないためには、神の御言葉のみを信じることです。人の言葉を信じて主の言葉に背いてはなりません。神の人は、この老預言者の信仰回復の犠牲となったのかもしれません。ある意味では十字架を思い起こさせます。偽り者を見抜くには、御霊の実を見て判断するしかありません。そのためには朝ごとに神の前に額づき、主を求めて祈り、御言葉を蓄えましょう。
(2016.6.12)
真理を理解しない人/渡邊ミドリ師
I列王記13章1~10節
イスラエル分裂による混乱の中で、神は一人の人を遣わしました。この神の人から、模範としての信仰を学びたいと思います。第一に、主の命令を守ることです。戦う時には、主の御言葉を握り締めましょう。御言葉によってしか勝利することはできません。御言葉の養いのない者は、クリスチャンとしては認められないのです。第二に、善悪を霊的に見極めるには、その信仰の実を見て判断することです。ヤロブアムは神の人に食事や贈り物を持ちかけますが、それは彼の歓心を買い、味方にしようとしてのことでした。自分の中に御霊が宿っていなければ、御霊の実を見て判断することはできません。御言葉のない時、サタンの罪の罠に陥りやすくなります。常に御言葉を自分の前に置きましょう。
(2016.6.5)
与えられた日々を大切に生きる/渡邊真太郎師
マタイ6章9~13節
私たちは日々、すべての心を神に向け、自分の使命を求め続け、聞き続ける必要があります。一日を大切に生きるには、第一に、今日与えられた御言葉を握ることです。その日の必要は主にお任せし、私たちは主を第一として、自分の使命を生きるのです。第二に、今日出会った葛藤を神様のところに持って行くことです。イエス様もこの地で理不尽な苦しみの数々をご覧になりました。そしてそのような時、葛藤多いこの地上で、主との関係を保つための祈りを教えられたのです(マタイ6:9、10)。第三に、「許す心」で一日を終えることです。許せない心は、神からの愛を見失わせ、神との関係を裂きます。すべての思いを神の御前にさらけ出し、許すと宣言しましょう。今私たちに必要なことは、このイエス様の模範に従うことなのです。
(2016.5.29)
問題と解決方法/渡邊ミドリ師
I列王記12章16~32節
教会には、様々な人が問題を解決したくてやって来ます。私たち個人もいろいろな問題を抱えています。良い解決に向けて、どのようにするべきでしょうか。第一に、自分の力に頼るなということです。レハブアムは神に背を向け、自分の力と知恵を過信し、愚かな策に従いました。それにより、イスラエルは分裂したのです。第二に、神の言葉こそ最善の道だということです。ヤロブアムは自分の民がエルサレムの神殿に行くことを恐れ、偶像を作り拝ませて主との約束を反故にします。何も起こらないうちから心配することは不信仰です。二人の王は共に自分の欲望のために動きました。私たちには、たくさんの計画があります。しかし、神の御心、御言葉のみが成るのだということを覚えましょう。
(2016.5.22)
一同は聖霊に満たされた/渡邊ミドリ師
使徒2章1~4節
イエス様はご自分がこの地上を去った後、聖霊がくだると約束されました。聖霊という形をとられ、主ご自身が来てくださるのです。ペンテコステの日は初代教会の誕生日です。しかしそれ以前、ペテロが最初の信仰告白をした時が教会の起源なのです(マタイ16:15~18)。主イエスは生ける神の御子であるという告白は、教会に属するすべての人々がどんな時でもしていくべきことです。教会は祈りの家です。聖霊がくだった時には皆、熱心に祈っていました。たとえ洗礼を受けていても、祈らず聖書を読まない人には聖霊はくだりません。聖霊に満たされた者は神の所有となるのです。私たちは御心にかなった本当の信仰告白をし、一人一人が聖霊体験をすることができるような群れとなりましょう。
(2016.5.15 ペンテコステ礼拝)
信仰と家庭/渡邊ミドリ師
出エジプト記2章1~10節、ヘブル11章23~25節
モーセの母ヨケベデは、信仰という剣でもって問題を切り倒していきました。クリスチャンには必ず、神の摂理が働きます。人間の誕生も神の摂理です。ヨケベデは神を信じ、モーセを生かすために最善を尽くしました。モーセがパロの娘に保護されたのは偶然ではなく、すべて主の働きなのです。モーセは母の祈りにより、王子としての繁栄よりも自分の民とともに苦しむことを選びました。神は必ず献身の時を一人一人に与えます。献身とは、牧師や宣教師になることではなく、自分を捧げることです。自分が何をして主に仕えていくべきかを常に問うことが大切です。私たちもヨケベデのように、災いにあっても御言葉に忠実であり続けましょう。そうすれば、必ずそれを乗り切ることができるのです。
(2016.5.8 母の日礼拝)
正義(みことば)を愛する人は聞く耳を持つ/渡邊ミドリ師
I列王記12章1~15節
12章に登場する二人の王に共通する罪は、聞く耳を持たなかったということです。聞く耳を持たない者とはどういう者でしょうか。一つは、主を求めることをしない人です。レハブアムは長老たちの賢明なアドバイスを退け、自分を持ち上げる若者たちの悪しき助言を聞き入れます。自分の心にかなう気持ちの良い言葉にしか従わないなら、必ずと言っていいほど失敗します。二つ目は、主の御言葉を捨てる人です。レハブアムは主の教えである律法を捨て、全イスラエルがそれに従いました。神の御言葉に従うか従わないかは、その人の自由意志です。私たちも教会、家庭、職場などあらゆる所で、同じような過ちを犯しやすいものです。それをくい止めるために、聞く心、聞く耳を養っていきたいと思います。
(2016.5.1)
立って、その地を歩きなさい/渡邊ミドリ師
創世記13章14~18節
祝福は、御言葉を信じ切るだけでなく、それに従うことによって与えられます。そのために大切なことは、教えられやすい心を持つことです。アブラハムは神の召命を受けた時、行き先もわからないまま甥のロトとともに生まれ故郷を出発し、主の声だけを頼って従いました。そして失敗の経験によって謙遜を知り、二人が分裂した時には、ロトに自分の行く道を選ばせました。信仰から出る実は謙遜です。良い信仰か悪い信仰かを見分けるには、御霊の実を見て判断することです。アブラハムは正しい選択により、再び行くべき道を示され、子孫の繁栄を約束されました。自分を捧げることによって、名もない自分を通して周りまでもが祝福されていくのだということを、ぜひ知っていただきたいと思います。
(2016.4.24 31周年記念礼拝)
神は罪を見過ごすことはない/渡邊ミドリ師
I列王記11章26~43節
神はソロモンの敵として、外側からハダデやレゾンを送られ、内側からもソロモンが重用していたヤロブアムを起こされます。ヤロブアムが預言者アヒヤと会ったのは偶然かに見えましたが、すべては神の御計画でした。アヒヤは主が十部族をヤロブアムに与えることを預言しました。これがソロモンの背信の裁きです。罪は必ず裁かれますが、愛なる神は許しの条件を与えてくださいます。それは、心からの悔い改めです。神の悔い改めの招きに即応答することです。そうすれば回復が与えられます。父ダビデの真の悔い改めにより、王国は滅亡せず、分裂に留まりました。そしてその家系からイエス様が生まれるという祝福さえくださったのです。私たちもこのことを覚え、その家系までも祝福されるよう努めましょう。
(2016.4.17)
神が怒られる時/渡邊ミドリ師
I列王記11章14~25節
神はソロモンを本当に愛していましたが、ソロモンはその愛を怒りに変えました。神が御心を変えたのではなく、ソロモンが自分の心を変えたのです。心が変わった時には何が起こるでしょうか。第一に、敵が近づきます。サタンは、罪に甘く悔い改めをしない者に寄ってきます。神の御言葉を聞く心を持つことが最も大切なのです。第二に、主以外のことに心が向くようになります。ソロモンは罪の意識が希薄だったために、偶像を拝み守るという最も愚かな罪を犯します。神は非常に大きな愛をお持ちですが、罪を黙認する方ではないのです。油断してはなりません。サタンは私たちの内にある弱さを握っています。断じて心を変えることなく、しっかりと主に従う信仰に立っていただきたいと思います。
(2016.4.10)
霊的堕落/渡邊ミドリ師
I列王記11章1~13節
ここはソロモンの失敗と霊的堕落の箇所です。何が彼を信仰から離れさせてしまったのでしょうか。第一に、世の誘惑、肉の弱さです。彼は神の警告を受けていたにも関らず、それを守りませんでした。誘惑は心を悪魔に転じさせるものなのです。第二に、世に調子を合わせることです。彼は異教の女たちの歓心を買うために神との約束からどんどん離れ、ついに神の最も嫌う偶像まで持ち込んでしまいます。偶像とはこのような異教の神に限りません。お金など、心を捕まれ執着させるものには本当に厳しくならなければなりません。第三に、不従順です。ソロモン自身がかつて言ったように、罪を犯さない人間は一人もいません。しかし、彼には父ダビデのような悔い改めがありませんでした。本当の悔い改めがあれば、神はそれを祝福に変えてくださるのです。
(2016.4.3)
死は終わりでない/渡邊ミドリ師
ローマ6章3~6節
バプテスマには、二つの意味があります。一つは、今までの生き方は終わりだということです。それは古い自分との決別であり、自分は主イエスのものであるという宣言なのです。二つ目は、新しい生き方の始まりだということです。バプテスマを受けることによって、聖霊が内住し、霊的な知恵が与えられ、たどるべき道が明確になるのです。世界中に様々な宗教がありますが、生と死についてはっきりと納得できる説明があるものは聖書しかありません。クリスチャンは死後、イエス様と同じ朽ちない身体を与えられ、主と共に食卓につくことができるのです。バプテスマを受けた者たちは、すでに新しいいのちが始まっているのだということに、強い確信を持って歩んで行きましょう。
(2016.3.27 復活祭)
最後の晩餐/渡邊ミドリ師
Iコリント11章23~30節
イエス様は、聖礼典として二つのことを行うよう弟子たちに命令しました。そのひとつはバプテスマです。イエス様は、水のバプテスマとともに聖霊のバプテスマを受けなさいとおっしゃいました。水のバプテスマは、自分がクリスチャンになったという外形的な表明です。それと同時に聖霊が内住し、古い自分、罪を犯しやすい心を聖化し、改心と新生を私たちに与えてくださるのです。二つ目は聖餐式です。聖餐式は罪の赦しと聖化の儀式であり、愛と一致の交わりの時です。そして神の国の前味でもあります。イエス様は御国の食卓に私たちを招いてくださっています。この儀式を軽んじることなく、一人一人が自分を吟味し、悔い改めるべき所は悔い改め、相応しい状態で聖餐にあずかりましょう。
(2016.3.20)
記念となる/渡邊ミドリ師
マルコ14章1~11節
この箇所には聖なる捧げものをし献身的に主に仕える一人の女性が登場します。イエス様はこの女性のしたことが、記念となるとおっしゃいました。記念となる行為とはどういうものでしょうか。まず、本物であることです。私たちは本心で主と向き合わなければなりません。彼女が純粋で大変高価なものを惜しみなく捧げることができたのは、純粋な心と信仰を持っていたからです。イエス様は彼女の行為を立派なことであると評価しました。彼女は人の目を気にせず、主イエスを心から愛していたのです。私たちの地上の生涯は主を礼拝していくか、主に背を向けていくか、二つの道しかありません。中立の道はないのです。
(2016.3.13)
神のみこころを行う人/渡邊ミドリ師
マタイ7章20~24節
天の御国に入れるのは、口先だけで神を呼ぶ者ではありません。神の御心を行う者です。この箇所にはクリスチャンの二つの道が記されています。一つは偽善者たちの道です。偽善者たちが行う奇跡は悪霊の業です。終わりの時には偽物の奇跡が世に満ちますが、日々聖書を読み、祈り、主との交わりを持っていれば、それを見抜くことができるのです。二つ目の道は、神の御心を行う者の道です。真に聖められ御言葉に忠実に歩もうとする者は、神の御心を行うことを第一とし、それを喜びとします。私たちは断じて偽善者とならず、御言葉に従い、常に主を賛美する信仰を持つクリスチャンとなりましょう。
(2016.3.6)
純粋な塩になろう/渡邊真太郎師
マタイ5章13節
イエス様は、あなたがたは「地の塩」だと仰っています。純度の高い塩は、貴重品であり、人類にとっての必須栄養素であり、腐敗を防ぎ、影響力を持っています。不純物の多い粗悪品は捨てられます。人もまた同じです。真理に対する純粋さが影響力の源であるという事実を忘れないでください。影響力は数の力ではありません。主が用いてくださるという確信、使命感を持つことが大切なのです。塩としての純度が高められると、主との純粋な関係によって、何を語るかという判断力が与えられます。礼拝や日々のディボーションは聖霊様の声に耳を傾ける訓練です。それにより、危機的な状況で主の促しを感じることができるのです。たとえ失敗したかに見えても、神様との関係にひびを入れず、純粋さを失わないでください。最終的な結果は主のみがご存知です。主に失敗はないのです。
(2016.2.28)
永遠に住む家「ソロモンより優るものがある」/渡邊ミドリ師
I列王記10章1~7、23~28節
神は私たち信仰者のために、ソロモンの豪奢な宮殿に勝る永遠の家を用意してくださっています。ですから、この地上では主イエスのために精一杯仕えていくべきなのです。クリスチャンに与えられた賜物は、町や国をも動かします。神がソロモンに与えられた知恵を聞こうと、全世界から人が集まりました。果てしなく遠いシェバ(エチオピア)からやって来た女王も、そこで主の臨在を見、語り継がれた主の御業は、後のエチオピアの宦官(使徒8:27~)の信仰にまで至るのです。これはすべて聖霊の働きです。私たちには、ソロモンに勝る知恵のあるイエス様に助けを求めることのできる特権があるのです。日々聖書を読み、イエス様にお会いし、その臨在を受け止めましょう。
(2016.2.21)
成功と挫折/渡邊ミドリ師
I列王記9章15~28節
神はソロモンに二度ご自身を現し、祝福を失わないための警告をされましたが、平和の中で王も民も腐敗していきます。成功から挫折へと堕ちていかないためには、何に気をつけるべきでしょうか。第一に霊的な欠如です。幸福な時には不信仰に陥りがちです。霊的に下降線をたどると、不真実、不誠実になります。ソロモンは富んでいたにも関らず、恩あるヒラムへの返礼として、役に立たない町々を贈りました。第二に、人間的な力に頼りすぎる危険です。ソロモンは神殿建設の後も、事業のために強制労働をはじめ、異邦人を奴隷として用います。私たちはこの轍を踏むことなく、成功したならさらに上を目指し、信仰をもって御言葉で養われ、主のみを頼るようにしましょう。
(2016.2.14)
祝福の基/渡邊ミドリ師
I列王記9章1~3節
祝福の基とは何でしょうか。第一に、神の警告に耳を傾けることです。それにより、聖霊の臨在を強く感じることができます。神の宮が建ったらもう安心ということではなく、私たちの心と行いが主とともにあることが、宮を守るのです。イエス様が裁き主として来られる時に備え、日々聖書を読み、祈り、油断せず聖霊に満たされていなければなりません。第二に、信仰の姿勢です。クリスチャンの信仰の歩みは、神の臨在を周りに示すしるしです。ソロモンも民も、豊かさと安定とともに、霊的に堕落していきました。苦しみ、悩みを通されることは良い訓練となり、喜びへと変わっていきます。心と信仰と行いをもって主に従っていきましょう。それが私たちの力となるのです。
(2016.2.7)
祝賀式(セレブレーション)/渡邊ミドリ師
I列王記8章54~66節
ソロモンが民を祝福した時、ソロモンと民の心は一つになり、ともに喜び祝いました。教会においても、牧師と信徒が霊に満たされ一つになる礼拝は、毎週が祝賀式となります。どのようにすれば、心から礼拝や交わりを喜ぶ教会生活を送れるのでしょうか。第一に、魅力的な共同体を作るということです。それは一人一人が、神は真実で約束を必ず守られるお方であると信じることです。信仰がある所には必ず一致があります。第二に、日常生活の中にも主はともにおられるという信仰を持つことです。聖日や祝祭日だけが喜びの日ではないのです。第三に、世界に福音を伝えることを願うことです。ソロモンの祝福の祈りの源も、すべての国々に神の言葉が伝わることへの願いでした。この学びを、大きな霊の糧として受け止めたいと思います。
(2016.1.31)
執りなしの祈り/渡邊ミドリ師
I列王記8章22~36節
ソロモンの祈りから、私たちはいくつかの模範となることを教えられたいと思います。第一に、神は必ず約束を果たす方であるということです。それを信じきることが大切です。第二に、主は宮だけではなくどこでもおられるということです。神は煌びやかな神殿だけに住まわれるのではありません。どこにあっても主の臨在を、大きな恵みとして受け取ることができるのです。第三に、祈りは聞かれるという確信をもつことです。神は公正な方ですから、心からの悔い改めがあればお赦しくださいます。罪を曖昧にせず、きちんと告白し、赦しを求めていくことです。私たちはソロモンの祈りに倣い、これらを実行して、主の道を歩んでいきましょう。
(2016.1.24)
主の宮の中心に置くもの/渡邊ミドリ師
I列王記8章1~21節
教会の中心に置くべきものは何でしょうか。それは、聖霊の働きを豊かにする霊的な一致です。現代における神の箱は、聖霊の内住です。霊的な一致のある所には、必ず神が住まわれます。どんなに煌びやかな会堂でも、霊のない所には神の臨在はなく、霊的な体験もありません。また、有形なものも聖なる宮となり得ます。みもみ教会の新会堂は、会堂を建ててくださるという神の約束の成就です。会堂も証しします。教会は神ご自身の住まいであり、教会に属する私たちは主の宮に組み込まれた生ける石なのです。私たちが本当に忠実に神を第一にするならば、主は霊によって養い、主の栄光のために力を発揮させてくださいます。ですからいつでも聖霊の油を用意し、再臨に備えていきたいと思います。
(2016.1.17)
その町の繁栄を求め祈れ/渡邊ミドリ師
エレミヤ29章1~14節
私たちには教会、家庭、職場、学校など、様々な所で問題が起こります。そんな時、どのように解決策を見極れば良いのでしょうか。まず、すべてが神の許容 の中で起きているということを認めることです。そして、本当に神に従う者には必ず平安と将来と希望が与えられると信じ、主を探し求めるのをやめないことで
す。エレミヤはバビロンの捕囚となった民に、その地に留まり、住みついて生活するようにとすすめます。これは故郷に帰りたい民には非常に辛いことでした。 しかし、どのような困難なことでも、神は必ず成してくださいます。その確信を持ってください。私たちに失望はありません。神の約束を信じ、希望を持って歩 んで行きましょう。
(2016.1.10)
自分の日を数える/渡邊ミドリ師
詩篇90篇1~17節
この箇所は生きることと死ぬことについて書かれ、前半は人間の罪と裁き、後半は信仰者に与えられる神の恵みを楽しむ人生について語られています。クリス チャンは地上での生を終え肉体が消滅しても、永遠の住まいが待っています。そのためには自分の日数を正しく数える生き方をすることです。それは、永遠を住
まいとする神に向かって生きる人生です。人は神に従うなら永遠に生き、従わないなら裁かれます。知恵の心とは、自分が罪人であるということを知ることで す。はっきりと毎日のように、神の前に悔い改めていくことです。神の約束を信じ、この地上では神の国の備えをしていくことが大切なのです。
(2016.1.3)
イエス・キリストを示せる私に自信を持とう/渡邊真太郎師
イザヤ6章1~8節
私たちがこの世に留まっているのは、一人一人が携えている福音を、自分らしいやりかたで示すためです。神はあなたに何ができるかではなく、自分を用いて くださいという思いを持っているかを問うています。主が一番の貢献と思われるのは、福音を伝えることです。私たちは世の光です。主が皆さんを、日常いる場
所に遣わしてくださっているのです。あなたにしか伝えられない方がいらっしゃいます。たった一人に伝えるだけでいいのです。それでそこにいる充実感、喜 び、使命感が得られます。あなたが伝える福音の光に自信を持ちましょう。相手がどんな対応をしても、十字架の福音の輝きは変わりません。皆さんの内側に神 の途方もない力があることに、この一年どうか自信を持ってください。
(2016.1.1 新年礼拝)