永遠の都を讃えて/渡邊ミドリ師
詩篇148篇
天上では、いつも御使いと天の軍勢が主を賛美しています。地にいる私たちもまた、霊的に結ばれた賛美チームなのです。地上の自然、動物、植物も主を賛美するものとして創られました。誰も知らない山の奥地にも美しい鳥や花々が存在するのは、主をほめたたえるためです。しかし愚かな人間はもろもろの被造物を偶像化してしまいました。それは、偶像の背後にある悪霊を礼拝することなのです。真の神への賛美を失わせることはサタンの業です。嬉しい時だけでなく苦しみ悲しみのうちにあっても、いかなる時も主に向かって賛美し続けることが大切なのです。主イエスは十字架にかかる前に、賛美をしながらオリーブ山に向かいました。パウロとシラスも獄中で賛美をしました。最悪な状態の中でも賛美をするその姿は私たちの模範となります。朝に夕に主をほめたたえ、霊的に整えられましょう。
(2017.12.31)
パンを水の上に投げよ/奥山実師
伝道者の書11章1節
本当の伝道とは何でしょうか。それは、パンを水の上に投げるようなものです。それほど空しい作業はありません。しかし、その無駄に見えることをやり続けるのが伝道なのです。そうすれば、ずっと後の日になって大収穫があるのです。アメリカの改革派教会は、100年以上カリマンタンの首狩り族に伝道し続けました。毒蛇、マラリヤの蔓延する大ジャングルでの過酷な伝道は多くの悲劇に満ちていましたが、一人のクリスチャンも生まれませんでした。しかし100年後、イスラムと共産党の闘争の中で、イスラムが首狩り族に宗教を持つことを強要した時、あれほど抵抗していた首狩り族がプロテスタントになることを願ったのです。100年パンを水の上に投げ続け、ついに豊かな実を結んだのです。日本にも、必ずそのような大リバイバルの日が来ます。そのために、私たちもパンを投げ続けましょう。
(2017.12.24 クリスマス礼拝)
小さな町の希望/渡邊ミドリ師
ミカ書5章1~5節
この書はイエス・キリストが誕生する約700年前の預言です。この時代は北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南ユダも大国の脅威にさらされ怯えていました。そんな暗い時代に、まことの支配者が来られるという希望のあるメッセージが与えられました。神は、救い主が小さな町ベツレヘムで産まれるという預言をミカに託されたのです。主イエスの誕生の預言は、地の果てにまで及びます。東方の博士たちは、旧約聖書の預言を信じて行動し、星に導かれてベツレヘムへとたどり着きました。ユダヤ人の宗教指導者たちは、同じように預言を知りながら、何一つ事を起こそうとはせず、結果的に救い主を拒否します。イエス・キリストの救いを信じ切ると、行動を起こしたくなるものです。私たちも希望を失わず、神に従って大きなチャレンジをしていきましょう。
(2017.12.17)
永遠の不思議/渡邊ミドリ師
ヨハネ1章1~9節
マタイ・マルコ・ルカの3福音書はイエス・キリスト誕生の歴史的事実を記していますが、ヨハネの福音書は、イエス・キリスト誕生の理由と、永遠の不思議な世界とのつながりを主題としています。ヨハネが強調する「永遠の不思議」とは何でしょうか。第一に、神はことばであるということです。ことばによって天地万物は創られました。ことばである神は天地創造の前の、永遠の昔から、時間・空間すべてを超越し存在しておられるのです。第二に、主イエスは命の源であるということです。私たち一人ひとりの中には神の息が入っています。主イエスは命がどれほど大切であるかを誰よりもご存知です。人が死ぬ者となった時、神は命の回復という一つの道を特別に作ってくださいました。それこそが主イエスの誕生による救いなのです。主はすべての人を照らすまことの光です。私たちも世の光として、闇に勝利しましょう。
(2017.12.10)
道を整える使者/渡邊ミドリ師
マラキ3章1~6節
主に遣わされる使者は、私たち人間のために道を整える役目を担っています。ここで神に遣わされた使者は、バプテスマのヨハネです。彼は神と人間の関係を回復するための使命を担っていました。彼のメッセージは、救い主イエス・キリストが来られるということと、悔い改めて神に帰れということでした。神は私たちに聖めを求めておられます。悔い改めて聖められないと、聖霊の臨在を感じることができません。主イエスはその十字架の血潮により、私たちを聖化してくださいます。救い主である主イエスは、再臨の時には裁き主となられます。私たちは霊的な備えをしていかなければなりません。まずは御前に悔い改めましょう。聖められれば聖められるほど、罪に敏感になり、錬られてさらに純化されていきます。それにより、奉仕することは喜びとなり、主をも喜ばせることができるのです。
(2017.12.3)
罪からの解放と祝福の道/渡邊ミドリ師
II列王記16章1~9節
大変な悪王であったアハズは、背信の罪を繰り返し、ついには滅びに至ります。彼の歩みを通して、人生の舵取りを間違えないためにはどうすればよいかを学びたいと思います。第一に、罪に敏感になることです。アハズは父祖から伝えられた主の教えを知りながら、心開かず、異郷の神々を拝むほど罪に鈍感でした。善悪の基準をはっきりと知り、主から来る知恵を用いて、聖霊が入りやすい信仰に立つことが大切なのです。第二に、神が悔い改めの機会を必ず与えてくださっているのを知ることです。政治的な点でも神ではなく人に依存していたアハズに対し、神は大預言者イザヤを通して主に信頼するよう迫ります(イザヤ7:1~)。しかしアハズはそれを聞き入れずアッシリアに頼り、それによって苦しむことになります。神からの警告に必ず応じましょう。そうすれば、驚くほどの感動を呼ぶ解決が与えられるのです。
(2017.11.26)
生き方を問われる時/渡邊ミドリ師
II列王記15章17~38節
悪王メナヘムは、アッシリア王プルが攻めてくると多量の銀を与えて難を逃れます。しかし神はそれを許されず、メナヘムのすべての町は滅びに至ります。人間的な知恵で一時的に危機を乗り越えることはできますが、神不在の解決は必ず急降下していくのです。主のいないところには欲望と争いが絶えません。王たちは皆、悔い改めを迫られながらも罪から離れず、国の滅びを招きます。王であれ一般人であれ、人生を終えて神の前に立った時、どのように御前に生きてきたかを問われます。私たちが地上で成すべきことは、神の前に持っていくものを備えることです。それは、私たち一人ひとりに与えられた、神からの使命を全うすることです。聖霊が豊かに私たちの内に働かれ、それが何かを示してくださいます。私たちは、主の目にかなうことをすることを心がけましょう。
(2017.11.19)
激動の時代/渡邊ミドリ師
II列王記15章1~16節
この時代は南北イスラエル共に、次々と王が代わってはいずれも滅びていくという状態でした。祝福の恵みから下降し、滅びに至ってしまう原因は何でしょうか。それは自覚がないことです。アマツヤ(ウジヤ)王は、当初は主の目にかなうことを行っていましたが、祭司ゼカリヤの死後、急激に高慢になり、ついには神に打たれます(II歴代志26:16~)。私たちも、祝福を受けた時にはそれを自分の手柄とするのではなく、主から来たものとして謙虚に受け止め、感謝するべきなのです。このような堕落した時代にも、神の摂理と恵みは動きます。ちょうどこの頃、大預言者イザヤが主を見、召命を受けているのです(イザヤ7:1~)。彼は闇に光をともす者として、御言葉を携えて激動の時代を生きました。私たちは、たとえ闇の中に落ちたとしても、必ず信仰によって光に導き出されます。クリスチャンに絶望はないのです。
(2017.11.12)
神の忍耐/渡邊ミドリ師
II列王記14章17~29節
信仰の継承は非常に難しいものです。この書に登場する栄華を極めた王たちも、ほとんどが悪王です。神はなぜ、次々に現れる背信の王たちに忍耐されたのでしょうか。それは、約束されたことを必ず守られる方だからです。ダビデの家系を守るという約束を、忍耐しつつ守り通しておられたのです。主は悪王アザルヤさえも用い、約束された繁栄をユダにもたらされました。そして主イエスの贖いの救いによる永遠のいのちの約束のため、今の時代にも私たちのために忍耐し続けてくださっているのです。悪王たちに共通して見られるのは、高慢と破滅です。高慢はサタンの性質であり、謙遜は主イエスの性質です。私たちクリスチャンは、主にならって謙遜を身につけなければなりません。日々神と顔を合わせ、御言葉を聞き、その都度霊的な養いを受けましょう。
(2017.11.5)
霊と肉の糧/渡邊ミドリ師
II列王記14章1~16節
肉の糧は、肉体を維持するために絶対に必要なものですが、それよりももっと大切なのは、霊の糧である御言葉です。ヨアシュ王の息子アマツヤは、父同様、王位についた時には御言葉に従っていましたが、その信仰を全うすることはできませんでした。主に信頼して人生を繁栄させていった彼は、次第に自分の力を過信していったのです。自分の限界もわきまえず、さらに勢力を伸ばそうと、同胞である北王国に戦いを挑み、敗北しました。成功しても、調子に乗ってはなりません。自分の力に頼ってはならないのです。この敗北の本当の原因は、アマツヤがエドムから偶像を持ち帰り、それを拝んだことでした(II歴代誌25:14)。異教の神々でなくても、神よりも優先してしまうものがあるならそれは偶像です。私たちも日々御言葉を食べ(エレミヤ15:16)、しっかりと霊を養いましょう。
(2017.10.22)
この場所で喜び感謝しよう/渡邊真太郎師
Iテサロニケ5章16~18節
教会には神が共にいて、働き支えてくださっています。私たちは神にお会いするために教会に行くのです。この特別なことに馴れてしまわないでください。私たちがここに集められたことには、将来に影響を及ぼす素晴らしい意味があります。しかしクリスチャンは時折その意味を見失いがちです。私たちは今の段階では将来のことはわかりません。しかし、はっきりと言えることは、素晴らしいことが起きるということです。まずはこの場所に呼ばれたこと、呼ばれた人々と共にいることを喜び感謝しましょう。悪いことにフォーカスせず、神から来る良いものに目を向けてください。心の中に感謝貯金をするのです。良いものを貯める人は良いものを出し、悪いものを貯める人は、悪いものを出します(マタイ12:35)。私たちは良いもので心を満たしましょう。
(2017.10.15)
勝利の矢を射る/渡邊ミドリ師
II列王記13章1~25節
死の床についた預言者エリシャは、ヨアシュ王に勝利の矢を射よ、と指示しました。神はエリシャの唇を通してヨアシュに迫ったのです。しかしヨアシュはあまりに容易な命令からその真意を悟ることができず、十分に射ませんでした。神の命令はいつも難しいことではないのです。この言葉を真摯に受け止めていれば彼は大勝利を治めたはずですが、射た回数と同じ3度しか勝利は与えられませんでした。彼は人には依存しますが、主に期待しなかったのです。勝利の矢を射よ、という言葉は私たちへの命令でもあります。主の御言葉に従う者には必ず勝利が来ると信じ切る者となりましょう。エリシャは死後も、その骨に触れた死者を蘇らせました。エリシャの死は終わりではなく、エリシャと共に永遠の主は生きておられるのです。主を信じる者には死してなお勝利があります。クリスチャンは、死さえも生きた証とすることができるのです。
(2017.10.8)
きっぱりした態度/渡邊ミドリ師
II列王記11章21節、12章1~20節
ヨアシュは晩年は悪王となりましたが、祭司エホヤダが共にいて助言をしていた間は、宗教に改革を起こし偶像を断ち切った善王でした。私たちは、クリスチャンの助言者は神であるということを知る必要があります。御言葉から離れ、人に頼っていくと、ヨアシュのようにどんどん道を外れていきます(II歴代誌24:17~)。人間関係だけが深くなる時、問題が起こります。人間関係の中心に主がおられれば、それが信仰の力となり、感動的な体験がもたらされるのです。神を中心として、互いに助け合い支え合って、一致していくことが大切です。また、善王であった頃のヨアシュが、神殿修復のため献金を正しく使うよう改革すると、民は喜んで捧げ物をするようになりました。教会は献金の目的、使い道、方法をはっきりさせ、正しく主の栄光のために用いるべきなのです。
(2017.10.1)
人には何事にも定まった時期がある/渡邊ミドリ師
伝道者の書3章1~2節
神が定められた時と、自分の願う時とは異なる場合があります。私たちは神の聖い世界に踏み込むことはできないと認め、それを受け入れる必要があるのです。伝道者の書には、この世の中に救いを求めることの空しさが数多く記されています。しかし、それで終わってはいません。生と死は人間の力ではどうにも解決ができず、神の救いこそが必要なのだということが語られているのです。この世には苦しみや理不尽なこと、理解できないことがたくさんあります。しかし、真の神に信頼し、まっすぐに主に向かって生きる者は、喜びをもって天に凱旋することができるのです。真の神と出会った私たちには、主イエスの十字架の贖いにより、永遠のいのちが与えられています。日々聖めていただき、いつこの世を去っても御国に凱旋できるよう準備をしておくことが大切なのです。
(2017.9.24 召天者記念礼拝)
支える手/渡邊ミドリ師
II列王記11章1~21節
この箇所から、教会と信徒たちが混迷の時代にどのように信仰を貫いていくかを学びたいと思います。悪王アハブとイゼベルのもとからユダに嫁いだアタルヤは、息子の死を聞くと、ユダの王一族をことごとく滅ぼします。南北イスラエルの和睦の機会と見えた婚姻は、ユダに大変な危機を招きました、結婚で一番守るべきことは、二人の間に真の神が介在することなのです。こうした状況の中、エホシェバは王子ヨアシュをアタルヤから隠します。私たちも、危機を悟る信仰を持ちましょう。このエホシェバと祭司エホヤダの働きが、ダビデ王家を断絶の危機から救います。もう駄目だと思った時にも、必ず神は助け手を起こしてくださいます。そして自分がその時代に遣わされた者として、支え手にならなければならない時もあるのです。自分が何をすれば良いかを主に祈り求めましょう。私たちの支え手は主なのです。
(2017.9.10)
主は始めた事を成し遂げられる/渡邊ミドリ師
イザヤ55章11~13節
主イエスこそが唯一の救い主であることがわかった人たちは、すべての考えが変えられます。何をするにも、すべて神に委ねるようになります。自分にはとてもできそうにないことでも、神のご計画であれば、必ず成るのです。神のご計画は私たちの方法とは違います。自分が進もうと思う道とは違う方向に導かれることもありますが、逆らわずにそれを受け止めて従えば、悪いと見えることもすべて良いことに変えられるのです。新しい価値観は、主イエスとの交わりを通してのみ与えられます。主から来る計画を実現し、主の栄光を現していくことこそ、私たちがこの地上で成すべきことなのです。神の計画は私たちが思うよりも遠大です。どんなに困難な道であっても、主が様々な方法でご自身を現し、励まし、事を成し遂げさせてくださいます。クリスチャンに挫折はないのです。
(2017.8.27)
神の思いと人の思い/渡邊ミドリ師
II列王記10章1~17節
エフーは神の摂理と計画によってイスラエル王となりましたが、その人間性には非常に問題がありました。悪王アハブの一族を根絶やしにするためとはいえ、その残忍なやり方は目に余るほどです。私たちには、神がなぜ彼のような人間を選ばれたのかをなかなか理解することができません。不可解と見えることに行き当たった時には、神の御思いを受け止めることが、クリスチャンとしての正しい対応です。エフーは自分のやったことを主の御言葉に従った結果だと言いましたが、聖書には彼の暴走が主の御心ではないことが示されています(ホセア1:4)。彼は自分を熱心な信仰の持ち主だと思っていましたが、主に従うという謙遜さが欠けていました。主イエスの性質は謙遜であり、サタンの性質は傲慢です。私たちは自分の心の裏側に潜む傲慢さに警戒し、常に主を恐れる心を持ちましょう。
(2017.8.20)
健康的な人生のバランス感覚とは?/渡邊真太郎師
箴言3章5~6節
私たちはとかく極端を好み、自分に都合の良い信念や思想に寄りかかりがちです。しかし、人の考えたものは簡単にバランスを崩します。完全な方であり、私たちの使命をわかっておられる主に信頼し寄り頼むことこそ、人生のバランスを保つことなのです。この世の知恵ではなく主とその御言葉を、寄りかかるものとして選択しましょう。しかし、聖書の一部だけを注視すると偏りになりがちです。日常の中で気をつけるべきなのは、仕事中毒にならず、怠け者にもならないということです。仕事や子育てなどに寄りかかり、他をないがしろにしてはなりませんが、安息に偏ると怠惰に陥ります。また、委ねることを学ぶべきですが、不忠実になってはなりません。委ねるとは、絶対的な信頼であり積極的な態度です。他力本願ではありません。御言葉に寄り添い続け、忠実に、神が与えてくださった「成すべきこと」をやり続けましょう。
(2017.8.13)
邪まな者の最終章/渡邊ミドリ師
II列王記9章17~37節
私たちはそう遠くない日に、神の裁きの時を迎えます。自分の生活が神の良しとするものであるか、神の忌み嫌うものと関わっていないか、日々信仰によって明確にしなければなりません。この世に迎合してはならないのです。アハブ家断絶のため油注ぎを受けたエフーは、ヨラム王への謀反を起こし、アハブの娘を妻とするユダのアハズヤ王もろとも殺害します。間違った婚姻は最終的に悲惨な結末を生むのです。エフーの真の目的は毒婦イゼベルの打倒でした。彼女は身を飾ってエフーを皮肉に罵りますが、ついに無惨な忌まわしい死を迎えます。それは主の裁きの預言の成就でした(I列王記21)。神はすぐにはアハブ家を裁かれませんでしたが、彼らはとうとう悔い改めることがありませんでした。私たちも、決して神の招きを拒んではならないのです。
(2017.8.6)
神の厳しい審き/渡邊ミドリ師
II列王記9章1~16節
愛なる神も、怒られ、厳しい裁きを下される時があります。ここにはアハブ王の家を根絶やしにする裁きの理由が記されています。アハブとその妻イゼベルは、神に仕える預言者たちを皆殺しにしました。悪に対して報復するのは神なのです(ローマ12:19)。また、アハブとイゼベルはイスラエルにバアル礼拝を持ち込み、腐敗と堕落へと導きました。神が最も忌み嫌うのは偶像崇拝です。異教の神々ばかりではなく、お金や異性、子どもなど、特定のものに執着しすぎるならそれは偶像になり得るのです。神はアハブ家を裁くためにエフーを選びました。彼は義人ではありませんが、悪を根絶やしにするのに相応しい者として、北王国で唯一油注がれた王となり、主に用いられていきます。主は人の目には不思議と見える選びを通して、ご計画を成さしめ、救いへと導かれるのです。
(2017.7.30)
まっすぐな言葉/渡邊ミドリ師
II列王記8章7~15節
どんな状況にあっても、クリスチャンはまっすぐな言葉を持つことです。当たり障りのない作りごとを言ってはなりません。エリシャはアラム王の臣下ハザエルと対面した時、彼の本性、彼が後に成すことを言葉を繕わずに語りました。まっすぐに語る者は、主の言葉が必ず実現することを経験します。ハザエルがアラムの王となることは既に主がエリヤに示されていたのです(I列王記19:15)。あれから20年がたち、その御言葉は成就しました。エリシャはハザエルが心の内に野心を持ち、後にイスラエルに害を加えることを見抜いた時、涙を流しました。主イエスも、エルサレムを見てその内に満ちる罪悪を覚え、泣かれました(ルカ19:41)。私たちにも、泣くほど苦しく切ないことは多々あります。しかし、どんな時も、この世に迎合せず、まっすぐな言葉と信仰を持ち続けましょう。
(2017.7.23)
神の摂理の中で失うもの、得たもの/渡邊ミドリ師
II列王記8章1~6節
ここに登場する女は、神に仕える者に親切の限りを尽くす信仰深い人でした(4:8~)。彼女に起きた様々な出来事から、人生に偶然はないということを教えられます。エリシャに、家族と旅立って七年間他の地に住まうようにと言われた彼女は、すぐその言葉に従います。この素直さこそ、彼女に祝福をもたらした大きな要因です。七年後、自分の家と畑を失い王に訴え出ようとしたその時、王はまさに彼女の話をエリシャの従者から聞いていたところでした。それにより、失った以上のもの、求めていた以上のものを得ることができたのです。これはすべて偶然ではありません。人の生きる道はすべて、神の摂理なのです。私たちも御言葉に素直に従い、たとえそれによって何かを失っても、神がさらに良いものを与えてくださるということを確信しましょう。
(2017.7.16)
信じるか。信じないか。/渡邊ミドリ師
II列王記7章1~11節
ありえないような御言葉を前にした時、それを信じきる者は幸いです。信じる者と信じない者は、どれだけ神に仕え、神と向かい合っているかで分かれます。御言葉でしっかりと養われていないと、人の知恵で常識的に判断してしまうのです。この箇所で神に用いられたのはツァラアトに冒された者たちでした。主は、悩み苦しむ者から目を離されません。神が目を離されるのは、信じない者なのです。ツァラアト患者たちは、自分たちのやっていることが間違いだと気づき、苦しんでいる民に良い知らせを伝えようとします。これはまさに悔い改めと福音伝道です。信じなかった王の侍従は、エリシャの預言のとおりに祝福を逃して死にました。どんな時でも、主は必ず不思議な御業によって助けてくださるのだということを信じきりましょう。
(2017.7.9)
災いを転じさせる神の教訓/渡邊ミドリ師
II列王記6章24~33節
人間が追い詰められた時、助けとなるのは神の教えしかありません。人間の知恵では真の解決は得られないのです。ましてや占いやまじない、偶像を求めるのは、悪霊の力に頼る最悪の選択です。災いが起きた時には、まず感情的にならないことです。イスラエルの王は大飢饉によるサマリアの惨状に激昂し、預言者エリシャに責任を転嫁して彼を殺そうとします。怒りは解決を生まず、物事をさらに悪化させます。神はすべて悪いと見えることを良いものに変えてくださると信じ、エリシャのように主の導きを求めて祈りましょう。最終的な助けは神からしか来ないのです。私たちは、いかなる時も良い振る舞いで主を証しし、神の正義を実現する者となりましょう。
(2017.7.2)
自分の人生を喜ぼう/渡邊真太郎師
ピリピ3章1節、II歴代誌12章1~12節
すべての人には神のご計画があり、神から与えられた使命があります。神はすでに、私たちの人生の素晴らしい景色をご存知です。私たちは周りに気をとられず、ただ神についていくだけで良いのです。人との比較は自分の人生の景色を見えなくさせます。神が、自分にとって最高の景色を見せてくださるのだと確信し、それを喜ぶことです。喜びは、私たちの心の安全を守り、神の備える素晴らしい景色に至る力となります。辛い状況にあっても、現在見えているものではなく、その背後におられる神のご計画に期待し、喜びを見出しましょう。試練の時こそ、主なる神に心を向ける態度を持つのです。それが、素晴らしい景色を見る上での大切なステップなのです。
(2017.6.25)
父が子に与えるもの/渡邊ミドリ師
詩篇127篇1~5節
この短い詩篇は、祝福の歌にもかかわらず「むなしい」という言葉が3回も出てきます。私たちは自分の幸せはもちろん、家庭の幸せと平和を心から願っていますが、思い通りに行かないと感じることが多々あります。それは、一番大切な方、天地万物を創られた全知全能の父なる神に目を向けていないからです。神は一人一人の人生に答えを持っておられます。むなしさのない、祝福された人生を送るには、父なる神が家を建てるのだということを知ることです。家を建てるとは、家庭を築くことです。自分の力しか頼れないというのは傲慢な間違いです。どんなに努力しても、神不在の家にはむなしさがやってきます。祝福された結婚をし、親が主からの預りものである子どもに、御言葉による生き方を示していくことこそ、家庭の祝福の源なのです。
(2017.6.18 父の日礼拝)
信仰の眼が開く/渡邊ミドリ師
II列王記6章8~22節
平穏な日々に突然、思いもかけない試練が襲ってくる時、それは、霊的な眼が開かれる信仰の覚醒の時です。アラムの大軍に包囲されているのを見たエリシャの従者は、大変おどろきうろたえます。しかし、エリシャによって霊の眼を開かれたことにより、彼らを守る神の大軍を見たのです。エリシャはアラムの軍を盲目にするよう神に願いますが、それは呪いや裁きのためではなく、敵への愛ゆえでした。真の勝利は剣や力によるものではなく、敵のために祈ることです。それは主イエスの教えでもあります。クリスチャンにとっての剣は御言葉なのです。エリシャは彼らをもてなすようにと王に言い、愛をもって屈服させ、問題を解決しました。私たちも善をもって悪に打ち勝ちましょう。
(2017.6.11)
聖霊の力/渡邊ミドリ師
使徒2章1~13節、エゼキエル36章26~27節
今日はペンテコステの日(聖霊降臨日)です。エゼキエルに与えられた新しい時代を告げる預言の言葉、聖霊の力を私たちに与えるという神の約束が、使徒行伝において成就したのです。この聖霊充満の奇跡は、最初の教会の誕生でもありました。主イエスの昇天は終わりではありません。再び裁き主として来られるその日まで、主は御座にあって、聖霊によって日々私たちを導き、ご計画を成し続けられるのです。聖霊は、旧約聖書の律法を変えました。ペンテコステの日から、神の律法は石の板にではなく、聖霊の内住により私たちの心に刻まれたのです。どんな時にも主の臨在を信じ、クリスチャンとしてどう行動していくかを常に聖霊に聞く者となりましょう。
(2017.6.4 ペンテコステ礼拝)
神は小さいことにも大きいことにも働かれる/渡邊ミドリ師
II列王記6章1~14節
神は信仰者のどんな小さな出来事にも介入してくださいます。この箇所でも、預言者のともがらが使っていた借り物の斧の頭が水の中に落ちるという、日常生活のごくささいな災難を、エリシャを通して解決してくださいました。預言者のともがらは、貧しいながらも一致し、互いに協力し合っていました。そして神のみの力を信じ、良い指導者エリシャを持っていました。神は私たちの生活状態を完全に把握され、どんな時にもご臨在を示してくださるのです。そして神は、小さなことだけでなく、大きなことにも働かれます。アラムの王はエリシャ一人に対して大群を送り包囲します。私たちにも、主が大きなヴィジョンを託されることがあります。その時には戦いが起こります。御手の聖さを信じ、一致して祈れば、神は大きな奇跡を見せてくださるのです。
(2017.5.28)
もし決断したならば/渡邊真太郎師
ローマ12章2節、Iコリント15章58節
神は私たちをさらに輝かせるため、変化を与えられます。私たちにはまだ見えない素晴らしい景色をご存知で、それを見せてくださろうとするのです。変化に対して拒絶の態度を持たず、主の導きに信頼しましょう。そして何かを決断をしたら、コミットメントの態度を持ち続けましょう。後ろを振り返ってはなりません。考え方を一新し、何か起きても神は私たちに必ず良くしてくださるという確信を持つのです。無駄に見える労苦でも、何の結果もともなわないことは決してありません。状況が変わった時も、前にできたことができなくなったと考えるのではなく、今しかできない、自分にしかできない何かを探すのです。主は必ず私たちに喜び、幸せ、充実感をもたらす将来を用意していてくださいます。疑わず、主から来る結果にのみ期待して生きましょう。
(2017.5.21)
母の使命「信仰の養育」/渡邊ミドリ師
出エジプト記2章1~10節
偉大な預言者モーセの母ヨケベデは、どのような信仰の持ち主だったのでしょうか。彼女は人を恐れませんでした。生まれてくるヘブル人の男児を殺せというパロの恐ろしい命令を知りながら、子どもを産み、どうやって生かせば良いかを考えました。神を敬っていた彼女は、この子どもが必ず主のために用いられるという確信を持っていたのでしょう。この世の問題にぶつかった時、必要なのは神からくる知恵と知識です。試練の時には、人に頼るのではなく、御言葉による解決をいただきましょう。信仰者の生涯は神の摂理の中で動いています。このようにして生かされた赤子がイスラエルを救う預言者となったのも、すべては神の摂理なのです。私たちも、主の導きのうちに生かされているのだということを噛み締めながら、日々歩んでいきたいと思います。
(2017.5.14 母の日礼拝)
いま出来ること/渡邊ミドリ師
II列王記5章14~27節
神は異教徒であったナアマンにさえ、福音に触れるチャンスを与えられ、癒されました。これは驚くべき恵みです。ナアマンは、唯一の神を知った時、まず御言葉に従いました。神の人の言ったとおりに行動したのです。私たちも何かが起こった時には、この世のものに頼らず、真っ先に神のもとに駆けつけるべきなのです。そして彼は正しい信仰告白をしました。ただ主にのみ仕えることを約束したのです。そして王が偶像の神殿に入る時、王に同行することについての許しを求めました。私たちも、いま自分ができる精一杯のことを考え、神の助けと導きを求めて妥協のない信仰を貫きましょう。他方、エリシャの弟子ゲハジは、物欲に負けて罪を犯し、裁きとしてナアマンのツァラアトを身に受けます。神はすべてをご覧になっています。神の心はいつも私たちと共にあるのです。
(2017.5.7)
主に仕えて/渡邊ミドリ師
創世記13章14~18節、ピリピ2章1~2、13節
みもみ教会は、今から32年前に、示された御言葉にしたがって東西南北を歩き、たどり着いたこの地で伝道を開始しました。今回は、これから教会が健全に成長していくために大切なことは何かを学びたいと思います。第一に、一致と団結です。思いと志を一つにしていれば、主が事を行わせてくださるのです。一致の基礎は、周りの人ではなく主イエスと自分との関係です。聖霊が一人一人に豊かに働いているなら、つまずくことはないのです。第二に、野心を持たないことです。謙遜であり、他の人を顧みるということです。それは主イエスご自身が示されたことでした。主イエスは神でありながら、人となってくださいました。私たちも救いを喜び感謝しつつ、仕える姿勢を持ち、これからの旅路を歩んでいきましょう。
(2017.4.30 32周年記念礼拝)
思いがけない方法/渡邊ミドリ師
II列王記5章1~14節
ナアマン将軍は優秀な軍人であり人格者でもありましたが、ツァラアトに冒されていました。彼の救いのために神に用いられたのは、特別な人間ではなく無力な奴隷の少女でした。少女は信仰に立ち、預言者エリシャがナアマンのツァラアトを治せると確信していたのです。少女の助言によりエリシャの元に行ったナアマンは、エリシャが自分の望むような方法ではなく卑近なことを命じたため、激怒します。自分の考えどおりに行くだろうという思い込みは信仰を妨げます。彼はこのようなプライドを砕かれる必要があったのです。高ぶりを捨て、しもべの言葉に耳を傾け、自分の考えを変えることにより、ナアマンは癒されました。救いの方法は難しくはないのです。
(2017.4.23)
復活は人が変えられた日/渡邊ミドリ師
ヨハネ20章1~10節
十字架と復活はクリスチャンにとってすべてです。復活があるからこそ、この地上の苦しみ悲しみに勝利する力をいただくことができるのです。復活された主イエスのからだは、霊であり肉でした。戸の閉まった部屋に出入りし、かつトマスに釘あとを示すことのできるからだをお持ちだったのです。傷のないからだになることがお出来であるにも関らず釘あとがそのままだったのは、それが私たちの罪の贖いの傷であることをわからせてくださるためです。復活を信じる聖徒には、新しい使命が与えられ、この世での仕事を全うした時には、主イエスと同じ栄光のからだをいただくことができます(ピリピ3:21)。復活のゆえに、私たちは死さえも恐れずにいることができるのだということを覚えましょう。
(2017.4.16 イースター礼拝)
凱旋─エルサレム入場/渡邊ミドリ師
マタイ21章1~17節
今日は棕櫚の日曜日です。受難週の始まりの時、主イエス様のエルサレム入場は、旧約聖書の預言の成就でした。イエス様はメシアであることを伏せてこられましたが、この時から公けにされるようになります。そして、数千年前からの神のご計画である十字架の道を歩みはじめられたのです。ここで歓喜に満ちて主を賛美した大ぜいの群衆が、数日後にはイエスを十字架につけろと叫ぶようになることも、主は既にご存知だったのです。イエス様はロバの子を借りさせる時、「主がお入用なのです」と伝えるようにと言われました。自分が持っている物を主のご用のために捧げることのできる人は幸いです。多くの物でなくとも、捧げればそれは溢れるほどになります。私たちも、主のために何でも提供できる信仰を持ちましょう。
(2017.4.9)
我らのいのちなる主/渡邊ミドリ師
II列王記4章38~44節
この箇所に書かれている2つの出来事は、私たちのいのちを守られる主がどのように働かれるかを示しています。主は、私たちをこの世の害毒から守られます。若い者たちは、それと知らずに煮物のかまに毒のうりを入れてしまいましたが、エリシャが神の権威と力によってそれを聖めたため、悪い物はなくなりました。私たちの生活の中でも、一歩外に出ると毒が満ちており、知らずに汚染されていきます。しかし、主の救いにあずかり、日々罪を清算することで、悪い物はなくなるのです。また、エリシャがわずかなパンと新穀を百人もの人に配らせると、主のことばのとおり、それはあり余りました。現実的には不可能に見える時でも、主に信頼し、御言葉のとおりに聞き従う時、奇跡は起こるのです。
(2017.4.2)
信仰を貫く/渡邊ミドリ師
II列王記4章25~37節
幸せが大きければ大きいほど、それを失った時の悲しみも大きくなります。しかしここに登場する女性は神をののしったり取り乱したりすることはありませんでした。このように信仰を貫くためには、神の愛と権威を信じることです。彼女はこの問題を解決することができるのは神の人以外にいないことを知っていました。苦難に直面した時の行動でその人の信仰がわかるのです。危機を察したエリシャは若い者ゲハジに自分の杖を持たせ先に遣わしますが、ゲハジには子どもを癒すことはできませんでした。彼には究極の悲しみの中にいる母親の気持ちに寄り添う愛が足りなかったのです。子どもはエリシャのとりなしによって生き返りました。神は信仰と愛による祈りにこそお応えくださるのです。
(2017.3.26)
二人の女性(ひと):貧しい人、裕(ゆた)かな人/渡邊ミドリ師
II列王記4章8~28節
4章前半に登場した女性は、貧しさの中で主の恵みを受けた人でした。今回の箇所では、裕かさの中で試練にあった女性の信仰と、主の臨在について学びたいと思います。彼女は裕福なだけでなく、働き人への心配りがありました。エリシャが神に遣わされた聖なる人だと悟り、彼を手厚くもてなします。財産はすべて自分のものではなく神のものであるということを知っていたのです。また、苦しみにあった時も、神が愛のうちに目的をもって働いているということがわかっていました。与えられた息子が死ぬという悲劇の中にあっても、騒ぎ立てることなく信仰による解決を優先したのです。苦難にあった時は、いい加減な信仰の人ではなく、信頼できる神の人に相談することが大切です。クリスチャンにはどんな時も、霊的な賢明さが必要だということを覚えましょう。
(2017.3.19)
自分を変える準備をしていこう/渡邊真太郎師
民数記26章64~65節、IIテモテ3章13~16節
大きな変化をむかえる春は、私たちが主を中心に生きていくということを学ぶ時期でもあります。いろいろなことに翻弄されても、変化を受け入れ、変えられていくのを喜ぶことが大切です。変えてはいけないのは主との関係だけです。私たちが新しいシーズンにふさわしく変わっていくためには、聖書を「読む」のではなく、聖書から「聞く」態度をもつことです。たとえ同じ御言葉でも、ともにいてくださる主がその時々に応じてガイダンスを与えてくださるのです。どんなに変化しようとも、主の約束と戒めは変わりません。主と共に生きることを選び続けましょう。そして、試練にあい、聖書に戻りたくない気持ちになった時ほど、聖書の中に飛び込んでいきましょう。聖書の中にこそ真理に至る知恵があるのです。
(2017.3.12)
死からいのちへ移ります/渡邊ミドリ師
ヨハネ5章24~29節
この箇所では主イエスが、人の子として生まれこの地につかわされたことの意味を語られています。中でも、主イエスを信じた者は死からいのちへと移る、ということを特に強調されました。主イエスの言葉を受け入れることです。死の時には肉体と霊が分離します。肉体は土にかえりますが、霊は残るのです。神の息を吹き込まれて生を受けた人間は、神を求める心、天の故郷を慕う心を捨てることはできません。不従順の罪の結果である死を人間は非常に恐れますが、主イエスは死に勝利したのです。復活の真理をしっかりと知りましょう。復活には、主イエスの十字架の死からの復活、そして再臨による死者の復活があります。私たちはまことの主イエスを信じ、いつか主の元にかえる時まで御言葉によって霊的に養われ、油を備えていきましょう。
(2017.3.5)
希望は失望に終わることがない/渡邊ミドリ師
ローマ5章1~5節
信仰によって義と認められた人に与えられる神の約束とは何でしょうか。第一に、生活の中に変化が必ず起こるということです。日々御言葉に照らされて罪人である自分の本当の姿が見えてきます。それを認めることにより、生活が一変していくのです。第二に、神との和解と平和が与えられるということです。アダムの不従順の罪により神と断絶した人間は、何とかして神に近づこうとします。しかし、主イエスの十字架の贖いを信じる以外、和解の道はないのです。第三に、希望は失望に終わることがないということです。死ぬべき者である私たちが、永遠のいのちを与えられ、神の国の入居者とされました。これはクリスチャンに与えられた素晴らしい特権です。神はいつも聖霊によって私たちと共にいてくださいます。私たちは、いつも希望をもって生きることができるのです。
(2017.2.26)
からの器/渡邊ミドリ師
II列王記4章1~7節
これからの時代、教会とクリスチャンはどのように貧しい人たちを受け止めるべきかを考えさせられる時が来ます。困窮者に対してあわれみを示しましょう。金銭は罠にもなりますが、本当に活きた用い方もできるのです。主イエスの伝道をまねることが大切です。主イエスは三年間、すべての時間を用いて、貧しい人たちや病人を救い、福音を述べ伝えました。教会の役割も同じなのです。ここに登場する未亡人は、自分を救うのは神だけだと知っており、すぐにエリシャに助けを求めました。間違ったものに頼ってはなりません。からの器がなくなった時、油は止まりました。神は私たちの信仰の動きをご覧になり、助け、祝福が満たされた時にそれを止められます。そして次の段階に移してくださるのです。私たちも信仰によって豊かにからの器を用意しましょう。
(2017.2.19)
万軍の主は生きておられる/渡邊ミドリ師
II列王記3章13~27節
クリスチャンはどのように人生に勝利していくのでしょうか。エリシャは音楽の力を用いて預言をしました。音楽には心を鎮める作用があります。賛美こそ勝利の秘訣です。神は剣ではなく水によってイスラエルに勝利をもたらしました。信仰の戦いに敗北はありません。神はいつも私たちと共におられます。信仰者に絶望は絶対にないのです。また、堕落していたとはいえ選民であるイスラエルの民は、モアブの王が息子を偶像のいけにえとしたおぞましさを前に、自分たちの国へと引き上げます。偶像の背後には悪霊があります。決して軽く見てはなりません。主イエスの再臨まで、地上に罪は蔓延します。これからの時代、キリスト者として信仰の目で世界を見ていくことが大切なのです。
(2017.2.12)
クリスチャンとしての存在/渡邊ミドリ師
II列王記3章1~14節
人生で大切なことは、どうやって成功するか、名を残すかといったことではありません。どのように神と共に歩んできたかということです。私たちは自分がキリスト者であることを明確にしているでしょうか。世の動きの中で、自分の信仰を問われる時が必ず来ます。北イスラエルの悪王ヨラムは、進軍した先で危機に遭うとすぐに絶望しましたが、南ユダの善王ヨシャパテは信仰に立ち、まず神の御言葉を求めます。ヨラムはヨシャパテのおかげで難を免れ、祝福にあずかります。良き信仰者は、自分を救うだけではなく、周囲の多くの人をも救うことができるのです。私たちも、どんな時でも神の御前に正しく、キリスト者としての品性をもって毅然として歩んで行きましょう。
(2017.2.5)
神の思いが分からないと感じた時/渡邊真太郎師
ローマ8章28節、ヘブル10章35~36節
誰でも、神の御心がわからないと感じる時があります。しかし、私たちから神が去ることは絶対にありません。孤独感、疑いがわいてくる時は、御言葉によって主との関係を立て直し、それらを排除しましょう。選択に迷った時に忘れてはいけないことは、私たちの人生にハズレくじはないということです。自分を誘惑や罪に陥れる選択をしない限り、どのような道を選んでも神はすべてを祝福し、最終的に良いものとしてくださいます。どんな道でも学び、経験、導きを与え、神のご計画を実現する土台としてくださるのです。大事なのは、選んだ道に邁進し、後悔しないことです。神から何も答えがないと感じる時は、私たちが忍耐という大切な性質を獲得する時なのです。何があっても、自分が主に愛されているという自信を失ってはなりません。
(2017.1.29)
新しい指導者の誕生/渡邊ミドリ師
II列王記2章15~25節
新しいリーダーの誕生の時には、神の霊の介在をはっきりと見ることができます。新しいリーダーのための道は、前もって備えていなければなりません。エリヤの導きによってエリシャは霊的な知恵を得ましたが、預言者の弟子たちにはそれが欠けていました。霊的な知恵のないところには聖霊の働きもないのです。神の御言葉を信じるところには、必ず奇跡が起こります。エリコの水が聖められたのは、塩ではなくエリシャの内に働いた神の霊によるのです。また、神の選んだ人を蔑む言葉は、神に対する嘲笑となるということを決して軽んじてはなりません。ベテルの子ども(若者)たちは、エリシャの霊的な力を見抜くことができませんでした。私たちも、真の神の知恵により、聖霊、悪しき霊を見分けることができるよう、正しく養われていかなければならないのです。
(2017.1.22)
引き継ぐ/渡邊ミドリ師
II列王記2章1~14節
師弟であるエリヤとエリシャの信頼と愛は、私たちの信仰の模範です。後継者エリシャは、地上のものにまったく未練を残さない人でした。彼は自分の家財をすべて手放し、エリヤについて行きました(I列王記19:19~21)。手放せない者は、主の御心を行うことができません。彼はエリヤとの別れを非常に惜しみ、どこまでも従い続けました。私たちも主の導きに従いましょう。神はご自分の方法で一人一人を仕えさせるために、いつでも導いてくださるのです。また彼はエリヤに、肉の遺産ではなく、霊の遺産を求めました。神は私たちの霊的な器に応じて聖霊を充満させてくださいます。エリヤは死を見ず天にあげられるという特権を得ましたが、私たちもまた、主イエスを信じた時にすでに死に打ち勝ち、永遠の命を引き継ぐ者として今ここにいるのだということを覚えましょう。
(2017.1.15)
新創造/渡邊ミドリ師
イザヤ65章17~25節、66章1~4節
この箇所は、これから私たちが担う世界、新天新地について語られています。神の創られた完璧な世界は、人間の不従順の罪によって堕落しました。しかし預言者イザヤは、永遠に至る本当の故郷である天に望みを持つよう導きます。終わりの日の前に、神がキリスト者に託されることがあります。本当に忠実に神に従っている者には、素晴らしい神のご計画を任せてくださるのです。私たちは神の裁きと祝福、どちらかを選ばなければなりません。今の時代にあっても、本当に御言葉を読み祈っていれば、あらゆる形で聖霊によって神を見ることができます。苦しみの向こうに見えるもの、新天新地を信じ、いま自分たちの教会に委ねられている新しいヴィジョンを達成していきましょう。
(2017.1.8)
全世界の救い主/奥山実師
マタイ1章1節
信仰を持とうとしている人に、確認すべきことが三つあります。天地万物を創り賜いし唯一の神の存在を信じているか、その神に対し罪意識があるか、その罪の身代わりの死であるイエス・キリストの十字架を理解しているか、ということです。その三つを満たすことにより、救いへと至るのです。聖霊によらなければ、信仰を告白することはできません。聖霊は私たちに自由に働いてくださいます。しかし、だからといって聖霊を求めなくてよいというわけではありません。奉仕のために、さらなる聖霊の満たしを願い求め、伝道に励みましょう。最良の方法は、救いに導きたい人を教会に連れてくることです。そして自分の伝道方法を身につけ、救霊の武器を持ちましょう。
(2017.1.1 新年礼拝)