神と向き合う/渡邊ミドリ師
詩篇36篇1~12節
クリスチャンは、朝起きたら神様の前に出て御言葉に接し、夜には感謝の祈りをもって明日に備えます。どんな時にも神様と向き合い、何でも語ることのできる特権があるのです。詩篇は数千年前に書かれた賛美の書ですが、今日までまったく変わらず私たちを励まし力づけてくれます。私たちが祈る力もないほど弱っていても、賛美にはサタンを打ち倒すことのできる力があるのです。悪しき者は神を恐れず、その心には不正と欺きがあります。正しい者は、善悪の違いを知っています。神ご自身が御言葉によって、正しいほう光のほうへと導いてくださるのです。正しさは安心であり、恐れを取り去ります。異教の国日本では、常に偶像の誘惑があり、危険が満ちています。しかし神を第一とし、堂々とクリスチャンとして振舞えば、勝利することができるのです。日々、主の聖い御手をもって悪しき者を追い散らしていただくよう祈りましょう。
(2019.12.29)
預言の成就/奥山実師
マタイ2章1~12節
メシヤ到来の報を恐れたエルサレムの民たちには、信仰がありませんでした。メシヤがもたらす平和の預言を信じていたら、彼らは歓喜に沸いたはずなのです。聖書は単なる宗教書ではなく預言の書です。主イエスがお生まれになる700年も前に記された、ユダヤ人のパレスチナ帰還の預言(イザヤ11:11-14)は、1948年5月14日のイスラエル建国により成就しました。そしてあらゆる預言を的中させてきた聖書が、人類は世の終わりに火で滅ぼされると言っているのです。しかしクリスチャンには、主の再臨という素晴らしい約束があります。主イエスと同じ、何ものも妨害できない自由な復活のからだを与えられ、千年王国を治め、最終的には新天新地で永遠に王となるのです。主イエスを信じ、罪赦され、神の子となるなら、この絶大なる恵みに預かることができるのです。私たちは一人でも多くの人に福音を伝え、今日か今日かと再臨の主を待ち望みましょう。
(2019.12.22 クリスマス礼拝)
永遠の昔からの定め/渡邊ミドリ師
ミカ書1章1~7節、5章2節
アダムとイブが罪を犯した瞬間、神は主イエスの誕生を永遠の定めとして計画されました(創3:15)。これが最初の福音です。ミカ書のこの箇所では、主イエス誕生の地として定められたのがベツレヘムであることが示されています。主はこの目立たない最も小さな町を、永遠の昔から選ばれていたのです。私たちの人生もまた、すべて主が定められていたことなのです。様々なことがあったとしても、今の現実を受け入れましょう。ミカ書には、裁き主としての神、救い主としての神、両方について記されています。主自らが、世界の証人としてご自身を示され、審判を宣言しておられるのです。これは当時の国々の民だけでなく、今の私たちにも語られています。ミカがこの書を記した700年後、ベツレヘムで主イエス誕生の預言は成就しました。終わりの前兆は既にあります。御言葉はすべて実現するのです。
(2019.12.15)
つらい時にすることは?/渡邊真太郎師
哀歌3章21~26節、詩篇102篇1~2節
人生にはつらいことが多々あります。そんな時は、主の愛と恵みに目を向けることです。主は目的・使命とともに、今日という新しい一日をあなたに与えくださっているのですから。哀歌のこの箇所でエレミヤは、嘆きの中にあっても希望に満ちています。詩篇記者もまた、悩み苦しんでも主を呪わず、賛美しています(12節)。これは神を知る者の最終的な強さです。私たちも、苦しみをすべて主に差し出し、希望に置き換えていく必要があります。試練は、主が私たちの敵となったために起きたのではありません。私たちの純度を高めるための愛による精錬作業なのです。しかしサタンが試練をもたらす目的は、神を呪わせることです(ヨブ1:11)。サタンの戦略に乗らないでください。困難な時こそもっと神に近づきましょう。試練は神の栄光を見るチャンスです。この経験を積み上げた時に、私たちは神の御座が見えるという境地に達するのです。
(2019.12.8)
励ます人になる/渡邊ミドリ師
使徒18章1~17節
アテネで伝道に悪戦苦闘したパウロは、コリントへと向かいました。彼を支えたのは主の励ましです。同労者や周囲のクリスチャンの存在が、パウロに力を与えたのです。特にユダヤ人の夫婦、アクラとプリスキラに出会ったことは、パウロにとって大きな慰めであり励ましでした。彼らは夫婦の、家庭のあるべき姿を示しています。試練の中で、主は必ず励ます人を遣わしてくださいます。パウロは彼らに支えられ、目覚ましい勢いで伝道に励むことができたのです。苦しみを通して、主は人の信仰を強められ、またその人を励ますために、特別な導きを与えられます。主は問題の多いコリントを救うご計画を持ち、幻によってパウロに語りかけられたのです。どんなに困難な状況でも主の励ましによって立ち上がるのが真のクリスチャンです。待降節は主の栄光を称える時です。私たちも主の励ましを支えとし、宣教の業に励みましょう。
(2019.12.1)
慰めの手紙/渡邊ミドリ師
IIコリント1章1~11節
手紙の冒頭であるこの箇所には「慰め」という言葉が10回も使われています。これはパウロが死を覚悟するほどの迫害の中で、神からくる慰めを経験したことによります。「慰め」という言葉はギリシャ語で、支える、強めるという意味があり、「聖霊」と同義です。聖霊こそ私たちの助け主であり、私たちが倒れないようにいつも支えてくださるのです。神はパウロに溢れるほどの愛を注がれていました。パウロは死と隣り合わせの状況で、神から受ける慰めこそ、生きる力を与えるということを知ったのです。神の慰めには、積極的な生き方を教えられます。慰めを受けた私たちは、今度は他人の慰め手になることができるのです。主は悪いと見えることをも良いことに変えてくださいます。祝福を受けることは難しいことではありません。慰め手である主を信じ、いつもそばにいてくださることを確信しましょう。
(2019.11.24)
最後の四つの勧め/渡邊ミドリ師
Iコリント16章13~24節
パウロはこの手紙を締めくくるにあたり、四つことを勧めています。第一に「目を覚ましていなさい」。これは、主イエスの再臨への備えです。今ある多くの災害を前兆と受け止め、信仰の備えをしなければなりません。第二に「堅く信仰に立ちなさい」。終わりの日には、間違った教えが蔓延し、教会に入り込んできます。巧みな誘惑から守られるよう、悪霊の働きに警戒しましょう。第三に「男らしく、強くありなさい」。これは成熟した信仰の人になりなさいという意味です。御言葉で養われるなら、試練があっても動じなくなります。主イエスから目を離さないでいましょう(ヘブル12:2)。そして第四に「いっさいのことを愛をもって行いなさい」。やはり締めくくりの教えは愛なのです。愛はすべてを完全に結ぶ帯です(コロサイ3:14)。憎しみを捨て人を愛するようになると、そこに必ず良いものが生まれます。愛を持っていれば、福音は伝わるのです。
(2019.11.17)
神の国を経験する/渡邊ミドリ師
Iコリント16章1~12節
この手紙でパウロは、不品行がはびこっていたコリントの教会を戒めるため、御霊について、結婚について等、一つ一つ懇切丁寧に教えてきました。そして最後となるこの箇所で、私たちクリスチャンの霊性に問いかけるための重要な問題、献金について取り上げています。別の書で、金銭を愛することは悪の根だと語っているように(Iテモテ6:10)、これは最も人を誘惑するものです。献金は、主と諸教会に対して愛を現すものなのです。パウロは、自分の伝道によって救われた人々に、困窮しているエルサレムの教会のために献金を捧げるよう勧めていました。それにより主の栄光が現されることを教えたのです。捧げものは、前もって準備をし蓄えておくべきものです。自分のためよりも主のために蓄えていく者を、主は豊かに満たしてくださいます。主は御座にあって、私たちを見ておられます。自分を第一とするのではなく、まず神の御心を求め、神のご計画を第一としましょう。
(2019.11.10 成長祝福式)
私たちは変えられるのです/渡邊ミドリ師
Iコリント15章50~58節
復活はいつ起こるのでしょうか。それは、主イエス・キリストの再臨の時に実現します。私たちがいま持っているからだは、老い、朽ちていくものですが、一瞬にして永遠に朽ちない復活のからだへと変えられます。私たちのアイデンティティは残しつつも、まったく新しいものにされるのです。復活は死に対する圧倒的な勝利です。未知の世界である死への恐怖も、復活によって取り除かれました。しかし、主イエスを救い主と信じない人々は、神の国に入ることはできません。その時になって悔い改めても遅いのです。主イエスの十字架と復活でサタンは敗北しましたが、再臨の時までに、なんとか私たちに罪を犯させ信仰から離れさせようと、ますます強く攻撃をしかけてくるでしょう。私たちは本当に警戒していかなければなりません。堅く立って動かされず、主のわざに励みましょう。その労苦が無駄になることは決してないのです。
(2019.11.3)
復活のからだと地上のからだ/渡邊ミドリ師
Iコリント15章35~49節
パウロは、地上のからだと天上のからだは異なるということを、自然界の例えを用いて説明しました。畑に種を蒔くと、種は一度死に、まったく違う形で実を結びます。同じように私たちのからだも、復活の日にはまったく違う新しいからだとなるのです。クリスチャンにとって死は絶望ではなく、朽ちないからだへと変わるプロセスなのです。神様は御心のままに、人間、獣、鳥、魚にそれぞれ違うからだを与え、太陽、月、星々にもそれぞれの役目、栄光を与えられました。そのように主は、次の世に適したからだを私たちにお与えくださるのです。肉のからだは滅びます。しかし御霊のからだは朽ちず、強く栄光に輝き、キリストと共に永遠に生かされるのです。アダムの罪により死ぬ者となった人類は、第二のアダムである主イエスの復活により生きる者とされました。私たちはその希望をしっかり持ち続け、この地上での生涯を全うしましょう。
(2019.10.27)
情報化時代で溺れないために/渡邊真太郎師
マタイ28章16~20節、14章22~31節
情報の洪水の中で真理を見極めることはとても重要です。惑わしの情報は世に氾濫しています。聖書こそが情報の波に立ち向かう唯一の術なのです。神への疑いを呼び起こす情報に気を付けましょう。復活の主イエスを前にした礼拝においてさえ疑う者がいたのは、間違った情報、人間的な常識に流されてしまったからです(28:12-17)。疑いを退ける方法は、イエス・キリストとその御言葉で十分なのだという確信を守り続けることです。主イエスだけを見て水の上を歩いたペテロは、風というイエス様以外のパワーを見たために沈みました(14:28-31)。イエス様だけでは不十分かもしれないと思った時、私たちは溺れてしまうのです。ペテロが溺れなかったのは、主イエスが手を伸ばして彼を掴んだからです。私たちも、沈みかけるかと思った時には、主だけにフォーカスし、主だけが解決であり自分を救う方なのだという信仰を守り続けましょう。
(2019.10.20)
復活の初穂/渡邊ミドリ師
Iコリント15章20~34節
復活こそ神の国の完成につながる重要な聖書の真理であり、人類に希望を与えるものです。救いの完成には順番があります。まず主イエスの復活、再臨の時主イエスに属している私たちの復活の後、サタンが滅ぼされ、地上のすべての国が父なる神に渡されるのです。キリストの復活は、眠っている者の初穂です。律法では、収穫の初穂を捧げ物とすることで、イスラエル全体の実を捧げたとみなされました。主イエスに続く実が私たちなのです。復活の信仰を持つ人は、周りに良い影響をもたらし、死後もその人に倣って洗礼を受ける人が現れます。しかし復活がなければ、それは意味のないものとなってしまいます(29節)。私たちは、死から甦った主イエスのいのちをいただきました。それ故に、恐れることなく復活の希望を持つことができるのです。当時のコリントの人々のように快楽主義で刹那的に生きるのではなく、死に勝利した主イエスに倣い、従いましょう。
(2019.10.13)
復活はないのか/渡邊ミドリ師
Iコリント15章12~19節
私たちクリスチャンが復活に希望を持てるというのは、他にない恵みです。しかし当時のコリント教会ではその希望に水を差すように、復活はないと主張する人たちが現れました。そこでパウロは、復活こそ福音の中心なのだということをはっきりと語ったのです。宣教の業の中心は復活です。主イエスの復活を目の当たりにしたことで弟子たちは変えられ、私たちに大きな希望がもたらされました。もし復活がないなら、宣教も信仰も、無意味で虚しいものとなるのです。復活の希望のない所では、非常に曖昧な葬儀が行われています。死んだ者たちはいったいどこに行くのでしょうか。世界中の数多ある宗教の中で、死者の復活についてはっきりと伝えているのは聖書だけです。私たちには聖書を通して、死んでなお素晴らしい世界で永遠に生きる保証が与えられています。この御言葉を信じて受け取り、喜んで従っていきましょう。
(2019.9.29 召天者記念礼拝)
復活を証明する/渡邊ミドリ師
Iコリント15章1~11節
主イエスは十字架の死から復活され、私たちに永遠のいのちを与える道筋を開いてくださいました。しかし一番の要であるこの復活は、人々には受け入れ難いものでした。そこでパウロは、復活こそ事実であることを証明したのです。まず、聖書が証言しているということを示しました。十字架につかれ、死んで葬られ、三日目に死から甦られたことは、聖書に書かれた通りだったのです。また、復活には目撃者がいたということをも示しました。主イエスは復活の後、ペテロ、十二弟子、五百人以上の人々の前に現れました。パウロ自身もまた主イエスにお会いしたからこそ、ここまではっきりと証言できたのです。主イエスとの出会いはパウロの人生を一変させました。主にあって人生を変えられる人は、御言葉の通りに生きようとします。そうならない人は必ず言い訳をします。しかし主に不可能なことはありません。もっと主の御力に信頼しましょう。
(2019.9.22)
秩序と平和/渡邊ミドリ師
Iコリント14章26~40節
礼拝で大事なのは秩序です。秩序のある礼拝では、それぞれが果たすべきものをもって集まっています。主の御目は私たち一人ひとりに注がれています。一人ひとりが主に貢献することにより、教会は成り立っていくのです。また、秩序は、問題を起こす人への対処法としても必要です。ここでパウロが、妻たちは黙っていなさいと言っているのは、女性蔑視ではありません。この時代のコリント教会固有の問題として、女性の行き過ぎた言動があったのです。これを今の時代にそのまま適用すべきではありません。男性、女性ということではなく、皆が主を第一として、自分の責任をもって主に仕えましょう。また、家庭での学びも大切です(35節)。教会と家を別々な領域として考えるのではなく、どちらも神の栄光を現す場として同じレベルで見なければならないのです。与えていただいた賜物を、主にあってお返ししましょう。秩序のあるところには平和があるのです。
(2019.9.15)
知性で語ることば/渡邊ミドリ師
Iコリント14章13~25節
パウロはここで2つの礼拝について語っています。一つはクリスチャンのみが集っている場合です。それは主への賛美と祈り、信徒へのメッセージが中心となります。天上の奥義、地上で成すべきこと、死後の裁きなどについて学ぶのです。そこではメッセージを理解する霊と知性が必要です。どちらかだけでなく、霊と知性が一つになってはじめて、真に主を求める心を持つことができるのです。もう一つは、未信者と共に行う礼拝です。異言は主と対話することのできる素晴らしいものですが、未信者には理解できず礼拝の場で語る意味はありません。しかし預言は教会の徳を高め、救いのために有益であり、止める必要はないのです。未信者を導くためには、すべての教会が正しい秩序と愛と一致をもって、霊的にも知性的にも整えられて、福音を語らなければならないのです。それらを忠実に成していくなら、主の臨在が確かなものとなるのです。
(2019.9.8)
徳を高める礼拝/渡邊ミドリ師
Iコリント14章1~12節
私たちは何のために教会に集い、礼拝するのでしょうか。本来、公の礼拝は自分だけのことではなく、集まってくるすべての人のためのものです。一人ひとりが賜物を用いられ、益となるものを主からいただくのです。コリントの教会では、異言・預言の解釈が正しくありませんでした。異言の賜物は、神と自分との直接的な関係であり素晴らしいものですが、解き明かす人がいなければ、他の人は交わることができません。しかし預言の賜物は、人に対して話し、勧めをし、慰めを与え、教会の徳を高めます。イエス様は、世の終わりには偽預言者が出てくると言われました。私たちが惑わされず、本来の賜物を発揮するためには、十分に神様の霊に養われなければなりません。パウロは、そのための勧めとして、「愛を追い求めなさい」と命じました。教会が多くの問題を抱えている原因は愛の欠如です。愛によって私たちが一致したその時、神の栄光が現されるのです。
(2019.9.1)
最もすぐれているもの/渡邊ミドリ師
Iコリント13章1~13節
最もすぐれているもの──それは愛です。“愛”とは何でしょうか。まず第一に十字架です。十字架に勝る愛はありません。この箇所で、パウロは愛について具体的に描写しています(4~7)。ここで語られている愛の性質は、イエス・キリストの人格そのものです。「愛」という言葉を自分の名前に置き換えて読むなら、私たちがこのレベルに達するのは大変に難しいことがわかります。しかし聖霊は、私たちに愛し方を教えてくださる助け主なのです。パウロは、賜物がいくらあっても、愛がなければそれは何の意味もないとまで言っています。愛よりも賜物を重視する価値観が教会に入り込むと、そこに間違いが起こります。神は愛です(Iヨハネ4:8)。愛は完全であり永遠なのです。私たちも、愛を中心に据え、心に刻み、何よりも優先していきましょう。
(2019.8.25)
嘆きを捨て、賛美の中に住む/渡邊真太郎師
詩篇13篇
この箇所でダビデは、心が嘆きに満ちている状態でした。人は苦しみ悲しみを感じると悪いものしか見えなくなり、身体、そして存在自体も大きな影響を受けてしまいます。しかしダビデはここで転換し、もう一度神様の愛と恵みの中に住むことを決断します。サタンは神と人との関係を裂くため義務感をもたらそうとしますが、私たちはそれを退け、日曜日に教会に集うという選択をしています。その選択を、神様が祝福してくださらないはずはありません。今日、みことばを住まいとするという決断をしましょう。みことばから生涯離れず、そこから引き離そうとする働きに対してノーと言うのです。そしてまた、賛美を住まいとする決断をしましょう。賛美は神様とのコミュニケーションです。神様は賛美に恵みをもって応答してくださいます。試練の時に賛美を捧げるなら、主はあなたの人生を、嘆きから喜びへと変えてくださるのです。
(2019.8.18)
「教会は一つのからだ」である/渡邊ミドリ師
Iコリント12章12~31節
教会はキリストのからだであるということを、パウロは人間のからだで表現しました。人間のからだには多くの器官があり、その働きはそれぞれ異なっています。そのように、教会の中での自分が、主の働きの一部であることを自覚すべきなのです。教会という共同体は、霊的な家族です。ですから、統一性を保たなければなりません。真の信仰は、調和をつくること、一致することを求めるものです。クリスチャンは、キリストのからだの中に入れられているのだということを覚えましょう。そこでの自分の働きを自覚するなら、ますます賜物が磨かれ、真価を発揮することができるのです。神様は私たち一人ひとりにご計画を持っておられます。私たちがそれを不可能と思ってしまえばそこで終わりです。しかし、主の御心は必ず成ると信じるなら、主は必ず道を開き、私たちの思っていた以上に素晴らしい形で報いてくださるのです。
(2019.8.11)
あなたの神はどこにいるのか/渡邊真太郎師
詩篇3篇
サタンはあなたの魂に、「あなたの神はどこにいるのか」と語りかけます。ダビデもまた、息子アブシャロムの謀反により命を狙われていた時に、「あなたに神の救いなどない」という言葉を浴びせられました。しかし、今日生かされていること自体が、私にある神の計画の成就なのです。夜眠り、朝目を覚ますというのは、当たり前のことではありません。主が、生きること、この人生を歩むことを許されているからこそ、朝を迎えることができるのです。聖書の多くの箇所にある、神は決して私たちを見捨てず助けてくださるという約束は、今も、困難に立ち向かう時、私たちすべてに語り掛けられる神の言葉です。「主は救う神」であるという確信を取り戻してください。状況は悪く道は開けず、批判され悲しみのうちにあろうとも、それでも私には救う神がおられるのだという確信をつかみ取り、祝福を受け取ってください。
(2019.8.4)
聖霊の賜物/渡邊ミドリ師
Iコリント12章1~11節
パウロは12章から3章にわたって聖霊の問題について語り、皆が正しい理解を持つように勧めています。聖霊は私たちの信仰を通して、周囲の未信者の関心を主イエスに向かわせるために働いています。「イエスは主である」と告白した人たちには皆、それぞれに異なった聖霊の賜物が与えられています。特別な人だけに与えられるものではないのです。そして教会の益のため、聖霊がそれぞれの持っている賜物を豊かに用いて主の御業を成してくださいます。用いられるごとに、私たちは信仰が強められ、整えられていくのです。しかし賜物は、愛によってその真価を問われます。たとえ教会、信徒、働き人に熱心な信仰があったとしても、愛がなければ聖霊のご臨在、賜物の働きを見ることはできず、そこからの救いもないのです。愛を追い求めましょう。主の素晴らしい働きのすべては愛から始まるのです。
(2019.7.28)
信仰の土台/渡邊ミドリ師
Iコリント11章27~34節
この箇所は聖餐式の取り方について語られています。パウロは、罪あるままで聖餐式に預かってはならないと警告しています。しかし、私たちは皆、罪深い者です。罪がなく聖い人だけが取りなさいという意味ではありません。これは、一人ひとりが自分を吟味しなさいということなのです。聖餐は、主イエスが最後の晩餐で、十字架を覚えて行うよう命じられたものです。相応しくないままで主の御身体と血に預かることは罪なのです。真に主の十字架を想うなら、いい加減な気持ちでは臨めないはずです。日々犯している罪を心から悔い改め、赦しを乞いましょう。そのように自分をさばくなら、さばかれることはありません。まずは自分の罪に気づくことです。クリスチャンは、特別な主の選民であるということをいつも意識するべきです。十字架の血潮により日々聖められているということを覚え、聖餐に預りましょう。
(2019.7.21)
あなたがたの信仰はどこにあるのですか/西山真宣教師
ルカ8章22~25節
弟子たちはなぜ「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われたのでしょうか。イエス様は舟に乗った時、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われました。これはイエス様の約束です。弟子たちは恐れのあまりそれを忘れてしまったのです。不信仰とは、与えられた御言葉を、無視・拒絶したり、忘れてしまうことです。御言葉を握り続けなければそれは益となりません。私たちは、悪い事が起こると主により頼むことを忘れ、自分の力だけで解決しようとしがちです。そしてうまくいかないと、弟子たちのように主に文句を言うのです。主は、それぞれの能力ではなく信仰によって人を用い、御言葉を成就させてくださいます。ありえないと思えることでも、御言葉に従い、信仰とともに自分のできることを忠実に行えば、主は大いに祝福してくださいます。そして荒波を叱りつけられたように、人間の理解を越えた方法で解決をもたらし、約束を成し遂げてくださるのです。
(2019.7.14)
聖餐式の本質/渡邊ミドリ師
Iコリント11章17~34節
聖餐式は、主イエスが地上に来てくださったということ、そして十字架の死、三日目の復活などを思い出すための、主が定められた儀式です。パンは主イエスの御体、盃は十字架の血潮です。これをいただく時、私たちは主イエスと一つになるのです。主イエスがこれを記念として覚えるよう命じられたのですから、私たちは決して忘れてはならないのです。しかしサタンは聖餐式を通して与えられる主イエスの目的を阻み、聖餐の重要性を失わせようとします。コリントの信者の中には、聖餐式のパンとぶどう酒を単なる食事と混同した上、自己中心的になり、愛餐の場にも社会的階級による差別を持ち込む者がいました。聖さのない所には分裂分派が起こります。聖餐式は主イエスと自分の間の契約です。相応しくないままで聖餐に預かる者は、裁きの対象となるのです。私たちは聖さを守り、感謝をもって主のご命令である聖餐を守りましょう。
(2019.7.7)
すべては神から発しています/渡邊ミドリ師
Iコリント11章1~16節
この箇所は理解し難い所ですが、決して男女差別ではありません。神様が男と女の関係にどのような計画を持たれているかが語られているのです。神様の御業には秩序があります。どこでも人間が存在する所には、その土地・組織の中で、人間の尊厳を守るための秩序が保たれています。男だけ、女だけでは駄目であり、男も女も神から生まれたものでどちらかが優れているというわけではなのです。秩序を守るのに、圧力を行使してはなりません。必要なのは調和です。秩序と調和のある所はなかなかありませんが、それがしっかりと保たれているのが教会です。様々な文化背景を持った人が集まっている教会に調和があるのは、クリスチャンの国籍が天にあるからです。私たちは最高の権威あるイエス・キリストの御名によって生かされています。主イエスの権威の下に集められている私たちは、人になびかず御言葉に立ち、調和をもって主の道を歩みましょう。
(2019.6.30)
辛いのは私だけ?/渡邊真太郎師
ヘブル2章18節
苦難の時は、信仰が試される時です。この地上ですべての苦しみを受けられたイエス様は、私たちのどんな苦しみもご存じであり、深く同情し、辛さ悲しさを共にしてくださっているのです。主はあなたを励ますため、慰めるため、必ず誰かをあなたのために遣わしています。それは予想もしない存在である場合がありますが、主はどんな存在をも慰め手・支え手として用い、脱出の道を備えてくださるのです。主は必ず解決を与えてくださいます。イエス様は「かわいそうに」と仰る時、大きな奇蹟を起こされました(例:マタイ15:32)。主の憐れみは必ず解決に繋がっているのです。解決をいただいたら、そこから学ぶことを忘れてはなりません。そして、学び取ったものを今度は注ぎ出すのです。主が、どれだけ大きな愛を、赦しを、支えを、恵みを与えてくださったかを学び、同じことをあなたも他の人にもたらしていきましょう。
(2019.6.23)
危機から勝利へ/渡邊ミドリ師
創世記22章1~18節
私たちには生きていく中で、多くの試練があります。アブラハムの人生も危機の連続でした。中でも最大の危機が、このイサクを捧げるという試みでした。しかし彼は信仰によって勝利したのです。愛する息子を捧げよという信じがたいような神のご命令にも、一度も反発することがありませんでした。彼は主を永遠の父なる神、全能の神、いと高き神とあがめました。これが彼の信仰の基礎だったのです。彼が少しも動揺を示すことなく乗り切れたのは、たとえイサクが死んだとしても、主は必ずイサクを生かしてくださると確信していたからです(ヘブル11:19)。その信仰によって、神はアブラハムを大いに祝福し、勝利をもたらしてくださったのです。不可能と思われることを可能にするのは信仰です。その信仰の量りに従って、神はご自身を現してくださるのです。私たちも、危機の時には奮い立って、主に信頼し、主の御足の跡を踏み従う者となりましょう。
(2019.6.16 父の日礼拝)
聖霊とはどんな方か/渡邊ミドリ師
ヨエル書2章28~29節、使徒2章1~13節
聖霊とは、どんな方なのでしょうか。神が天地を創造された時「水の上を動いていた」のが聖霊です(創世1:2)。そして唯一の神が人を創られた時「われわれに似せて」と仰っているのは、父・子・聖霊であり、はじめから三位一体であられるのです。旧約時代には、神の霊は特別に召命を受けた人にのみ与えられました。しかし新約の時代には、主イエスを救い主と信じる者すべてに与えられます。聖霊は私たちの助け主です。地上では、どうしていいかわからないような出来事がたくさんあります。しかし私たちクリスチャンには、主イエスの御名によって祈る特権があります。主は、聖霊によって解決を与えてくださるのです。ペンテコステの聖霊降臨は、異邦人のためでもありました。本当に聖霊に満たされた人は、神の国とその義とをまず第一とします。そして、伝道をしたくてたまらなくなります。それが、全世界に福音を伝える力となるのです。
(2019.6.9 ペンテコステ礼拝)
キリスト者の自由/渡邊ミドリ師
Iコリント10章23~11章1節
パウロはコリントの教会の人々に、クリスチャンの自由について教えました。まず、クリスチャンには選択する自由があります。しかしここで「すべてのことはしても良いのです」言っているのは、何でもやりたいことを好きなようにやってもいいということではありません。何かを選択する時には、それが有益であるか、徳を高めるかどうかによって選ぶ必要があるということです。そして何より、神の栄光を現すほうを選ぶことが大切なのです。クリスチャンは神にあって自由ですが、その選択が周囲の人をつまずかせるのなら、自由を行使すべきではありません。人をつまずかせないよう気遣うことは、クリスチャンにとってとても必要なことなのです。パウロの言うように、食べるにも、飲むにも、何をするにも神の栄光を現すためにし、「私を見ならってください」と言えるような信仰を持てるよう心がけましょう。
(2019.6.2)
主が定められた出会い/渡邊ミドリ師
使徒8章26~40節
すべての出会いと、その出会いの時には、主が絶対的に働かれています。神のなさることは、すべて時にかなって美しいのです(伝道3:11)。ピリポは主の使いによって、ガザに行くよう示されました。そこではエチオピアの宦官が、イザヤ書の受難の箇所を読んでいました。彼は聖書をよく読み、さらに神のことが知りたくて、巡礼者となってエルサレムに行った帰りだったのです。その魂は既に、洗礼を受けるに相応しく整えられていました。そこで主は、ピリポを遣わして彼の内に働いてくださったのです。主は、例えまだ主を知らなくても、その存在を信じ、強く求める人の心をご存じです。熱心に主を探す者は主を見つけるのです(箴言8:17)。聖霊の導きに敏感でありましょう。不信仰のゆえにそれを感知できなくしてはなりません。神の心と一つであるなら、私たちも必ずその御心を知ることができるのです。
(2019.5.26)
共存できないこと/渡邊ミドリ師
Iコリント10章14~22節
パウロは信仰が揺らいでいる信徒たちに対し、偶像礼拝を避けよと強く命じました。これは私たちの毎日の生活の中でもとても大事なことです。クリスチャンの食卓と偶像の食卓とは、まったく相容れないものなのです。クリスチャンの聖餐式では、パンとぶどう酒を通して主イエスの血と身体にあずかり、主イエスと一つになります。これは安易な気持ちで受け取ってはならないものです。同様に、異教の葬儀などで、人間的な付き合いを優先して儀式に従うことは、クリスチャンが絶対に着いてはならない食卓にあずかるのと同じことなのです。偶像の神などというものは存在しませんが、その背後には悪霊が存在します。これくらいなら大丈夫だろうと思ってしまいがちな罠が、日常生活の中には山のようにあります。しかしそれをしっかりと拒絶するなら、神様は私たちに必ず良い道を開いてくださるのです。
(2019.5.19)
神の愛と母の愛/奥山実師
イザヤ49章15節
神の愛に最も近い人間の愛は、母の子に対する愛です。本当の親孝行とは何でしょうか。親に最大の幸せを与えることです。親の最大の幸せとは何でしょうか。永遠のいのちを与えることです。これほど素晴らしいプレゼントは他にありません。子としての義務を果たすことや親を物質的に富ませることにばかり目を向け、主に仕えることを怠るのは御心ではありません(マタイ10:37)。親への最大のプレゼントは伝道です。神様は様々な方法で伝道の道を開いてくださいます。この母の日、皆さんも母に感謝し、最高の親孝行である伝道に励んでください。
(2019.5.12 母の日礼拝)
経験を通して学ぶ/渡邊ミドリ師
Iコリント10章1~13節
人生には良い事も悪い事もありますが、私たちは、主がこんなことをしてくださった、という恵みを決して忘れてはなりません。パウロはここでコリントの教会に対して、旧約時代の神の民の歴史を振り返り、経験を通して学ぶよう教えています。選民イスラエルは驚くべき奇跡の数々を体験しました。しかしそれでも彼らは荒野で偶像礼拝、姦淫の罪に陥り、リーダーであるモーセを殺そうとさえしたのです。その結果、ヨシュアとカレブ以外は約束の地に入れずに滅びました。彼らと同じ過ちを繰り返してはならない、信仰をしっかりと保ちなさいとパウロは言っているのです。自分の信仰はちゃんとしているから大丈夫、などと自信過剰になってはなりません。主が過去にくださった大きな恵み、奇跡を日々覚えることが大切です。そしてそれを糧に、困難に負けず奮い立って、主の道に歩みましょう。
(2019.5.5)
「励まし」を私たちの文化にする/渡邊真太郎師
マタイ7章12節、Iテサロニケ5章11節
「励まし」は聖書的文化です。これを私たちの文化としていきましょう。自分がして欲しいことをし、して欲しくないことはしないというイエス様の教えは、励ましの大原則です。甘やかしては駄目だと言って根性を叩き直そうとする人は、ただ自分の感情をぶつけて相手を傷つけ、恐れさせるだけです。愛と励ましを土台とし、その人に何が必要か、主に祈りましょう。たとえ葛藤を感じても、ひたすら励ますことを選び、相手が立ち上がるための力を与えるのです。第二回伝道旅行でパウロに見捨てられたマルコは(使徒15:37~39)、後に福音書を最初に書く人物となり、最晩年のパウロに必要とされるまでになりました(Iテモテ4:11)。彼の成長にはバルナバの存在が大きく影響したはずです。バルナバという呼び名は「励ます人」の意で、聖霊様の別名でもあります。私たちも、互いに関心を持ち合い、励まし合い続け、神様のヴィジョンを立てあげる教会を目指しましょう。
(2019.4.28 34周年記念礼拝)
復活!! 主イエスのよみがえり/渡邊ミドリ師
ルカ24章1~12節
十字架の死に立ち会い、最初に主イエスにお会いした婦人たちも、十字架と復活の話を何度も聞いていた弟子たちも、主のよみがえりをなかなか信じられませんでした。復活の証人は500人以上いましたが(Iコリント15:6)、パウロの話を熱心に聞いていた者たちは、復活の話をするとあざ笑いました(使徒17:32)。なぜ人は復活を疑うのでしょうか。復活は闇に打ち勝ちました。闇とは罪と死をもたらしたサタンです。サタンは自分の敗北である復活を人々に信じさせまいと日々働いているのです。しかし私たちを恐れさせることはもはやできません。主イエスは、十字架と復活を宣べ伝えるよう命じました。全人類の罪を清算するための身代わりの死が十字架です。復活は人が死によって滅びることを願わない神の愛のご計画です。それを信じる私たちには永遠のいのちと神の都の住まいが保証されています。このことを復活祭の今日、心に刻みたいと思います。
(2019.4.21 復活祭)
朽ちることのない冠/渡邊ミドリ師
Iコリント9章19~27節
私たちクリスチャンの目標は天国であり、福音を伝えることです。それを目指していくことにより、朽ちない冠を得ることができるのです。人の意見に左右され、自分の目標を見失ってはなりません。自分が救われたというだけで終わる人生ではだめなのです。パウロはユダヤ人に対してはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになりました。それは彼らに迎合しているということでは決してなく、彼らが本当に福音を知るためにあえて同じ立場の人間になったのです。パウロは、すべてのことを福音のためにしたのです。これこそがクリスチャンの目指すべきところです。そうする時、神様は私たちの肉体、霊性、経済のすべてを保証してくださいます。失格者になってはなりません。まやかしのクリスチャンであってはならないのです。私たちも日々聖めていただき、御霊の油を備えて再臨携挙に相応しい信仰を求めましょう。
(2019.4.14 棕櫚の主日)
自由と権利/渡邊ミドリ師
Iコリント9章1~18節
コリントの人々の中には、パウロに使徒の資格がないと中傷する者がありました。それに対してパウロはここで、自分の立場を証明していきます。私たちは主に立てられた器である牧師、宣教師、伝道師などに対して、どのように対応すべきでしょうか。彼らは主の召命に忠実に従い、特別な権利をいただいている人たちです。一般の信徒と違い、自分の生活のために働くのではなく、主の仕事に専念しているのです。パウロ自身は当然持っている権利を放棄しましたが、私たちは惜しみなく捧げ、働き人を支えるべきであると教えています。人生を後悔のないものにするためには、福音を伝えることを何よりも大切にする必要があります。主イエスを知ることで、私たちには素晴らしい自由が与えられました。人生には様々な問題がありますが、神様はすべてをご存知であり、必ず解決を与えてくださいます。その特権を覚え、心からの感謝を捧げましょう。
(2019.4.7)
ヒーロー、ヒロインになるよりも/渡邊真太郎師
士師記16章4~5節、18~21節
サムソンは生まれる前から神に任命されていました。これを自分とは関係のない話だと思わないでください。私たちもサムソンのように、生まれる前から取り分けられ、使命を託された存在なのです。サムソンは特別な選びに相応しい人生を歩むことができませんでした。彼は神を見ないで、いつも他のものを見ていたのです。神の存在を遠くに置いてはいけません。神は成果ではなく、神とともに「どのように」生きるかをご覧になります。神が私たちに賜物、才能を与えられたのは、単に私たちが繁栄するためではなく、私たちを通して神の栄光が現されるためなのです。サムソンが神に立ち返ったのは、死の直前、すべて取り返しがつかなくなってからでした。もし間違ったときには、できるだけ早く神のところに戻りましょう。神が求めているのはヒーロー、ヒロインではなく、神に対して忠実な心を持った者なのです。そうなった時、私たちの使命がよりいっそう明らかになるのです。
(2019.3.31)
信仰は知識か愛か/渡邊ミドリ師
Iコリント8章1~13節
パウロはここで、教会に入り込んだ偶像の問題について教えています。コリントにあったたくさんの異教の神殿は、そこでさかんに行われていた商売のために、なくてはならないものとなってしまっていました。しかも市場で売られている肉には、偶像に捧げられた肉も混在しており、クリスチャンの中で、その肉を食べるべきか否かで論争がありました。これは偶像が蔓延する現代の私たちも、心に留めるべき問題です。まずどんな問題も、知識によって対処してはなりません。信仰の原点は愛なのです。論争している人は皆、絶対に自分が正しいと思っています。そこには愛がありません。裁き合ってはならないのです。クリスチャンは自由です。しかし中には弱く罪悪感に責められるクリスチャンもいます。そういう場合は自由を誇らず、弱い者をつまずかせないように自由を行使しないことが愛なのです。愛のない者に神はわからない、という御言葉を覚えましょう。
(2019.3.24)
危急の時には/渡邊ミドリ師
Iコリント7章25~40節
パウロは7章全体で、結婚について様々な立場の者に向けて語っています。それは、コリント教会に迫害の予兆があり、世の終わりへの意識が高まる危急の時だったからです。今の時代の私たちも、世の終わり、再臨携挙を常に意識し、霊的な油を用意している必要があります。この箇所で未婚の男女に、そのままの状態に留まっていることを勧めているのは、艱難の時代が来ることを念頭に置いていたからであり、決して、結婚反対・独身賛成と言っているわけではありません。パウロが言いたかったのは、時は縮まっている、ということなのです。彼の宣教の業は、いつも世の終わりを意識したものでした。クリスチャンは、過ぎ去っていくこの世に執着するのではなく、光の世界、永遠の御国を見て生きるのです。結婚もまた、三つ撚りの糸として神が真ん中におられなければ、それは虚しいものなのです。神が共にいてこそ、そこに本当の愛が生まれるのです。
(2019.3.17)
神が召された状態で歩む/渡邊ミドリ師
Iコリント7章17~24節
教会には、独身者、既婚者、離婚している人など、様々な立場の人が集まっています。パウロはここで、彼らがそれぞれ、主からいただいた分に応じてどのようにあるべきかを教えています。それは、召された時、すなわち救われた時の状態のままで歩むようにということです。人間はとかく聖書にない規則を作り、それに従わなければいけないと決めつけがちです。ここで語られている「割礼」は現代にはありませんが、例えば洗礼について、滴礼でも良いか浸礼にすべきか、幼児洗礼を認めるか、などの論争があります。しかしイエス様とともに天国に行った強盗は、洗礼を受けてさえいないのです。大事なのは、形式的なことではなく神の命令を守ることなのです。それは決して難しいことではありません。礼拝を守り、祈り、聖書を読み、いつも主の御前にい続けるなら、必ず霊的な糧と力をいただくことができるのです。
(2019.3.10)
結婚についての教え/渡邊ミドリ師
Iコリント7章1~16節
ここで語られているのは結婚についてです。パウロはまず、夫と妻が互いに義務を果たし合うことを教えています。コリントの人々は、霊と肉とを別に考えて放縦に走る快楽主義者でした。これは、神が人間を霊と肉の結合体として創造されたことに反する考えです。神は、男と女を一心同体として制定されました。結婚した段階で「自分のもの」というのは無く「互いのもの」となるのです。またコリントには逆に、肉体的なことを一切断つ禁欲主義者のグループもありました。独身でいたい者があるなら、それはそれで良いことです。しかし主イエスも、だれもが受け入れられることではないと言っておられます(マタイ19:11.1)。不品行の罪を避けることこそ重要なのです。神の定めを守らないところには、様々な問題が起こります。クリスチャンの結婚では、神・教会・家庭をそれぞれ別のものとしてでなく、一つとして考えましょう。
(2019.3.3)
自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい/渡邊ミドリ師
Iコリント6章12~20節
人間の生きる目的は何でしょうか。それは、神の栄光を現すことです。主イエスは私たちに死からの勝利と永遠のいのちを与え、御国への道を備えてくださいました。そして真の自由を得させ、解放してくださったのです。しかし、自由というのは放縦とは違います。コリントの人々は、救いに預かったにも関わらず、自由の意味をはき違え、不品行の罪を犯し続けていました。肉の身体の行いは霊とは関係ないと思っていたのです。結婚は、霊も身体も一つとなる神から祝福された聖い愛の関係です。肉体と霊を分離する考えは、創造主を冒涜しているのです。私たちの身体は、聖霊の宮なのです。私たちの中には、神が住まわれています。私たちは主を愛する時、主とひとつになることができるのです。聖霊の内住を感じると、罪に敏感になります。誘惑の多い世にあっても、神の栄光を汚すことなく生きていけるよう、日々聖めていただきましょう。
(2019.2.24)
試練はやっぱりやってくる/渡邊真太郎師
Iペテロ1章6~7節、Iコリント10章13節
私たちが救われたことにより、死は絶望から栄光へと変わりました。同じように、試練も大きく変わったのです。辛いもの、できれば無いほうがいいものから、無くてはならない大事な意味を持つものとなりました。試練はなぜ起きるのでしょうか。それは私たちの中にある不純物を取り除き、私たちの人格(キャラクター)を輝かせるためです。神様が私たちをいじめようとされているわけでは断じてないのです。金銀は、強い炎であればあるほど精錬されます。試練もまた、その先にある純度の高い輝きのために必要なものなのです。試練が終わった後には、ぜひ私たちが通った脱出の道と、主の御手を見出してください。そこから、将来への確信を形作る大切な金を拾い出しましょう。それが、次の試練での希望を生みます。金かす(苦しみの経験)ばかりを拾ってはなりません。いつも共に苦しんでくださる主がおられることを決して忘れないでください。
(2019.2.17)
公正な審き「訴えを裁くのは誰か」/渡邊ミドリ師
Iコリント6章1~11節
私たちは、様々な問題を解決するための知恵をどのように持つべきでしょうか。まず第一に、信仰者でない人に判定を依頼してはなりません。コリントの教会では、神を知らない者たちに問題の解決を求めていました。パウロは、法廷での裁きを否定しているわけではありません。その前に、聖徒たちに相談すべきなのです。私たちは、仲裁できる人になる必要があります。祈りもせず聖書も読まない者に仲裁はできません。クリスチャンが一番重んじなければならないのは愛です。愛がある所に争いは起こりません。たとえ起こったとしても、主イエスの十字架の前には必ず解決があるのです。コリントの教会には愛がなく、お互いに足を引っ張り合い、主の栄光の耀きを汚していました。訴え合って醜く争うことは既に敗北です。争いではなく愛を選ぶなら、主は悪いと見えることを必ず良いことへと変え、勝利をもたらしてくださるのです。
(2019.2.10)
取り除きなさい/渡邊ミドリ師
Iコリント5章1~13節
クリスチャンは罪とどう向き合い、それをどう取り除いていけば良いでしょうか。まず何より、御言葉に照らされることです。コリントの教会には不品行の罪が蔓延し、教会もそれを黙認していました。このような状態では、当人だけでなく教会も裁かれます。私たちを汚すものはこの世にたくさんあります。しかし、御言葉の前に解決しない問題は絶対にありません。主の御前に駆けつけ、御言葉をいただきましょう。それに従う時には、素晴らしい祝福の雨が降り注ぎます。パウロは、教会が聖められ、汚れが取り除かれるために、不品行な者を除名しました。厳しいようですが、彼らが悔い改め、主イエスによって救われるためでもあるのです。私たちも聖めと回復の道を選びましょう。そして、皆で集まり、罪を犯した人の霊が救われるよう祈るのです。私たちの内には古いパン種があります。それを取り除き、純粋で真実な正しい礼拝を行いましょう。
(2019.2.3)
私にならう者になりなさい/渡邊ミドリ師
Iコリント4章14~21節
牧師や宣教師などの働き人と一般信徒は、父と子の関係です。パウロは、自分を通してイエス・キリストを信じた人々のことを自分の生んだ子どもと言い、信仰の父として、自分にならう者となるよう教えました。これは決して傲慢なのではなく、日々の生活行動において、誰もが否定できないほど信仰者としてのレベルが高かったということです。パウロが次の伝道地へと去った後、コリントの教会には、ギリシャの哲学・思想、異なった宗派など様々なものが入り込み、パウロを貶めるようなことを信徒に吹き込む者が分裂混乱をもたらしていました。その時パウロは、父が子を気にかけ愛を示すように、手紙や弟子を通して自分の生き方を見せたのです。これぞ信仰と言えるのは、主にあって生きているかどうかを人が見てわかるということです。一人ひとりが、私を見ならってくださいと言える信仰に立つことを心から願います。
(2019.1.27)
正当な判定をされる主/渡邊ミドリ師
Iコリント4章1~13節
紀元55年にコリントの教会が抱えていた問題は、現代とまったく変わりがありませんでした。パウロがその過ちを正すために書き送ったこの手紙から、私たちも信仰の備えを学びましょう。第一に、神の領域を越えてはなりません。パウロは教会における使徒の立場について、神の奥義の管理者であると言っています。それは神の御言葉を委ねられ、すべての被造物の管理を託されているということです。神は働き人に、忠実であることを求めておられます。その働きについて判定を下すのは、教会でも信者でもありません。神ご自身なのです。第二に、正しいと自分で言える信仰を持ちましょう。知恵や豊かさで傲慢になり人を裁く者たちに対し、パウロは、自分にはやましいことは少しもないと断言しました。それは、十字架の主イエスによって罪赦され聖められ、義とされているからです。私たちもそのように堂々と確信をもって宣言できる者となりましょう。
(2019.1.20)
たった一つの土台/渡邊ミドリ師
Iコリント3章9~23節
コリントは豊かな町でしたが、非常に堕落していました。繁栄している時ほど傲慢になり、信仰は弱まりがちなのです。自分たちの考えを優先し、教会の本質というものを知らないと、争い、分裂が起こります。パウロは建築を例えに、教会のありかたや、霊的に建て上げられることについて語りました。最も重要なことは、土台を据えることです。私たちのただ一つの土台はイエス・キリストです。それは家庭でも個人でも同じです。私たちが何をもって建てるかによって、信仰の真価が問われます。教会は特別な建物です。神の御住まいの場所であり、神が御霊によって臨在されています。争いや分裂は決して赦されることではないのです。そして私たちもまた神の神殿であり、神の栄光を現すために生きています。イエス・キリストを土台としてしっかりとそれを守るなら、どんな問題が起ころうと、必ず正しい答え、解決へと導かれるのです。
(2019.1.13)
主と心を一つにする/渡邊ミドリ師
II歴代誌16章7~14節
私たちは様々なヴィジョンを持ちます。しかしそれがどんなものであっても、神様と心が全く一つになっていなければ達成することはできません。人間的な知恵で物事を解決してはならないのです。主により頼み、勝ち目のない戦いに大勝利したアサ王は、主を第一にすると宣言したにも関わらず、その約束を破り、どんどん主から離れ、人に頼るようになりました。主に約束したことを破ってはなりません。主は預言者ハナニを遣わして悔い改めを迫りましたが、霊的に鈍感になっていたアサ王は逆に激怒し、その警告に耳を貸しませんでした。裁きによって足の病にかかっても、とうとう主を求めることをしなかったのです。主は必ず立ち返るチャンスを与えてくださいます。自分の過ちを指摘してくれる人がいたなら、それを主の声と思って受け入れましょう。そうすれば、思いもかけない神様のお答え、祝福をいただくことができるのです。
(2019.1.6)
一緒に希望を告白しよう/渡邊真太郎師
ヘブル10章23~25節
教会は何のためにあるのでしょうか。困難な世にあっても、私たちはここに戻り、この場所で主に触れられ、力づけられ、自分に与えられた人生の素晴らしさ、主の解決に目を向け、語り合います。そして希望をいただいてまた出て行くのです。私たちはとかく否定的なことを口にしがちですが、希望を口で告白し続けることは非常に大切なことです。どんな状況でも、正しい道を歩むようお互いに気を付け合いましょう。キリスト以外に解決の道があるのではないかという惑わしに注意してください。サタンは私たちに、自分だけが正しいことをやっても無駄なのではないかという思いを持たせ、内側の光を一人ひとり消していこうとします。ですから、私たちはこの場所に来て、火が消えないように燃え立たせ、守る必要があるのです。御名において集まっているところには主がおられます(マタイ18:20)。今年も希望をもってここに集まり、励まし合いましょう。
(2019.1.1 元日礼拝)