役に立つ人/渡邊ミドリ師
IIテモテ2章1~13節
主は私たち一人ひとりに賜物を与えてくださっています。主を第一とし、喜んで奉仕する時、必ず御目を向け、祝福してくださるのです。パウロは自分が神様に与えられたものをテモテに託しました。テモテはその教えを忠実な信徒たちに伝授し、信徒たちはそれを未信者へと伝えていきました。こうして福音は広がっていくのです。自分一人で何でもするべきではありません。信頼できる人に分かち合い委ねることです。信頼できる人とは、主の教えに忠実であり、教える力のある人です。私たちクリスチャンは、主イエスから高い召命を受けているということを、いつも自覚していましょう。主イエスの立派な兵士となり、競技者のように栄冠を目指し、農夫のように良い収穫を得るためには、忍耐が必要です。忍耐できるのは、その向こうに確実な希望があるからです。そうして主に栄光を帰し、やがての日には主の御前に堂々と立つことのできる者となりましょう。
(2021.2.21)
闇の後の光/渡邊真太郎師
詩篇4篇6~8節、マタイ4章12~17節
絶望し、闇の中に座しているように思える時があります。しかし主が私たちの光であることを覚え、主を仰ぎ見、倒れても起き上がりましょう(ミカ7:7-8)。ダビデは苦難の時にも主を賛美し、御顔の光を照らしてくださるようにと願いました。私たちも、光をもっと見せてください、と祈る思いを持ちましょう。たとえ人々が神の助けを否定しても、その声に飲まれることなく、光なる方が必ず私たちに喜びをくださるのだという思いを堅く持ちましょう。闇の後に輝くイエス・キリストの光に目を向けるのです。主イエスが宣教を開始した時、その活動を妨げようとする闇の力が働いていました。ガリラヤに戻られたのは恐れ退いたためではなく、闇の力と相対するため、ヘロデの影響力の強い場所にあえて行かれ、闇の中に光を輝かせたのです(マタイ4:12)。たとえ闇の力が束の間勝利したかに見えても、最終的には主の大いなる光の計画が必ず成就するのです。
(2021.2.14)
確信の土台/渡邊ミドリ師
IIテモテ1章10~18節
パウロはなぜ、迫害の中にあっても信仰の確信を持ち続けることができたのでしょうか。それは、自分の信じて来た方である主イエスを良く知っていたからです。だからこそ、このような状況下でもテモテを励ますことができたのです。私たちも、御言葉と御霊によって主イエスを知ることができます。何事も、主にお任せしましょう。主がそれを守ってくださるから、安心することができるのです。自分の欲望に従っていると、前に進まず信仰も低迷してしまいます。主の御心だけが成るのです。パウロは、死んで後も、復活の主が自分のお任せしたすべてのものを守ってくださることを確信していました。私たちも、信仰の確信を揺るがせてはなりません。たとえ祈りが聞かれなくても、神様の時があるのだということを覚え、忍耐強く待ちましょう。主が与えてくださった、永遠に対する希望を持ち続け、日々感謝し、主を待ち望みましょう。
(2021.2.7)
継承すべきもの/渡邊ミドリ師
IIテモテ1章1~10節
テモテへの手紙は、パウロの遺言のようなものでした。悪名高い皇帝ネロの迫害下、獄屋の内にありながらも、テモテとその教会を励ますためにこの愛溢れる手紙を書いたのです。彼は夜昼、テモテを思い起こしながら懸命に祈っていました。私たちも、家族や友人知人を思い起こし、彼らのために祈りましょう。意気消沈している人を励ます時には、神様が与えてくださったものに目を向けるのです。神様はどんな人にも御目を向け、その人にしかない賜物をくださっています。そして私たちはどんな状況下にあっても主を証しし、どんな労苦をも担うことのできる力をいただいているのです。それは殉教寸前のパウロが、落ち込んでいる人を励ました力でもあります。パウロが自分の後を継ぐ者としてテモテを選んだのは、テモテが祖母や母から継承した信仰のゆえでした。私たちも、受け継いだ信仰を堅く保ち、それを後の者に託して行きましょう。
(2021.1.31)
神の人と呼ばれて/渡邊ミドリ師
Iテモテ6章11~21節
パウロはここでテモテを「神の人」と言いました。これは主イエスを信じる私たちへの呼びかけでもあります。神の目を気にするクリスチャンと、人の目を気にする未信者では、生活の基準が違います。弱いクリスチャンはこの世の基準に合わせてしまいます。どんな時でも、信仰を守り抜かなければなりません。私たちが蓄えるべきは金銭ではなく霊的な正しい信仰です。神様が私たちに委ねたものを守りましょう。正しい信仰生活を送るなら、偽物に惑わされることはありません。この戦いの先には、永遠のいのちという勝利の御旗があります。私たちはどんな場所でもどんな時にも、主を証しすることができるのです。受難の時にさえ真の神を証しした主イエスを模範としましょう。私たちは今日も生かされ、守られ、祈ることができ、主に信頼を置くことができます。豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置きましょう。
(2021.1.24)
主イエス・キリストの十字架はただ一度だけです/渡邊ミドリ師
ヘブル9章24~28節
終わりの日には偽り者が現れ、奇蹟をもって人々を惑わします。偽者を見分けるには、「御霊の実」を見ることが大切です。そのためにも、御言葉によって正しい教理を身に着ける必要があります。最も知らなければならないのは、主イエスの十字架です。旧約聖書39巻の中で、何百年もの間、幾度となく預言され待ち望まれていた十字架の救いが、主イエスによって成就したのです。象徴としての儀式ではなく、主イエスの十字架の血潮によって、私たちは聖められ罪赦されました。これが新しい契約です。贖いを終えた主イエスは天に帰られました。再び来られる主は、救い主ではなく裁き主なのです。その時、すべての人が御前に出て、永遠の裁きにあうか永遠のいのちにあずかるかを決められるのです。それを知る私たちは、昨日よりも今日、より聖められることを願いつつ、宣教の業に励み、愛する人々を救いに導かなければならないのです。
(2021.1.10)
神はそれを良いことのために/渡邊ミドリ師
創世記45章4~8節、50章14~26節
ヨセフの波乱万丈な生涯は、私たちに試練の中でどのように信仰を持って生きるかを教えてくれます。人生には、あり得ないと思うようなことが起こります。災いと見えることを幸いへと変えられる主が、人事を遥かに超えたことをなさるのです。ヨセフはどんな苦難に襲われても、すべては神によって成っているという信仰を堅く持ち続けました。最悪の状況にある時も、彼は既に神の器として用いられていたのです。私たち一人ひとりについても、必ず神様のご計画があります。ヨセフはその人生を通して、赦すということを体得しました。本当の信仰があると、人を赦すことができるのです。彼は兄たちよりも早く召され、遺言として、イスラエルの子らが故国、主の約束された地に必ず帰ることを告げ、自分の遺骨を一緒に持って行くよう願いました。私たちもヨセフのように、主の家に必ず帰るという確信を持ち、人生の終幕をも証しとする者となりましょう。
(2021.1.3 新年礼拝)
光を見つめて立ち上がる/渡邊真太郎師
ミカ書7章7~8節
今の世は大変な状況にありますが、この箇所から、起き上がれないような時、何を見れば良いかを学ぶことができます。たとえ敵に倒されようという状況でも、クリスチャンは必ず立ち上がることができます。自分の努力ではなく、主を見上げて立ち上がるのです。主の解決を確信しましょう。ミカのように、敵よ、喜ぶなと宣言するのです。倒れ伏しても、私たちが見るべきは光なる主です。今は、光なる方が私たちと共におられる恵みの時代です。救いの主を待ち望みましょう。闇が深ければ深いほど光が必要です。光について書かれている聖書に親しみ、気づきを書きとめましょう。継続的に聖書を読むことは大きな力です。多くの人々が苦難の時代に聖書から力を得、状況を変え、世界を変えていったことは歴史が証明しています。いまの私たちに必要なのは、時が来ると実がなる(詩篇1:3)ことを待ち望む忍耐と、その時が必ず来ることを信じる信仰なのです。
(2021.1.1 元日礼拝)