2022年のメッセージ

主の約束を守る/渡邊ミドリ師

使徒1章1~11節

 主イエスは復活の後、天に上る時、私たちに二つの言葉を残されました。一つは世界宣教の拡大です。地の果てにまで福音を伝えることは、私たちの使命なのです。もう一つは、聖霊の力を得なさい、ということです。力という言葉「デュナミス(dynamis)」は、ダイナマイトの語源です。宣教の際には必ず妨害が起こります。ダイナマイトのような力を受けて、邪魔するものすべてを木端微塵にし、大胆に福音を語るのです。そのためには、聖霊で満たしていただくよう祈る必要があります。神様が求められているのは忍耐です。不平不満を言うことなく、聖霊の働きを待ち望みましょう。昇天の後、御使いは主イエスが再び来られることを告げました。それから2千年が経ち、旧約聖書の預言はことごとく成就し、イエス様が語られたことも次々に起こっています。再臨の時は近いのです。あらゆる妨害を粉砕する力をいただいて、福音宣教に励みましょう。

(2022.6.5 ペンテコステ礼拝)

 

終末の苦難と復活/渡邊ミドリ師

ダニエル12章1~13節

 神がダニエルに示された幻がここに完結します。この終末の預言は黙示録と非常によく似ています。亜麻布の衣を着た人とは、受肉前のキリストです。主は終わりの時が来ること、神の家が迫害によって聖められること、苦しみの時は定められていること、忍耐が求められること等を語られます。かつてなかったほどの苦難がありますが、いのちの書に記されている者、すなわち忠実に主に従った者はすべて救われます。さばきが神の家から始まる(Iペテロ4:17)というのは、私たちをふるいにかけるためです。しかし、信仰を守り抜き、周りに良い影響を与えた人々は、星のように輝くのです。今の世にある患難や戦いは人間の罪の結果です。神の怒りが治まる時、再臨の時は定められています。ダニエルは最後まで主に忠実でした。主は彼に、復活と報いが必ずあることを約束されました。私たちも忍耐の先にある祝福の約束を希望とし、終わりの日に備えましょう。

(2022.5.29)

 

終わりの時に備えよ/渡邊ミドリ師

ダニエル11章40~45節

 私たちは終末の戦いへの備えをしなければなりません。イエス様は、何度も世の終わりには前兆があると言っています。その前兆は旧約聖書でも預言されているのです。終わりの時には世界各地に戦争が起こり、私たちは平和を失います。反キリストとその勢力は、神の民を苦しめます。しかし、クリスチャンには祈ることができるという特権があります。イエス様はいつも私たちと共にいると約束してくださいました。神の民が必ず勝利することは既に定められています。どんなに強大な力を持っていても、悪の種を持つ者は最終的には滅ぶのです(IIテサロニケ2:8)。しばらくの間、苦しむことはあっても、イエス様が再び来られる時には携挙の恵みに預かることができるという大きな希望があります。最終戦争・ハルマゲドンはすべてエルサレムに向かって起こります。エルサレムの平和のために祈りつつ、主の再臨を待ち望みましょう。

(2022.5.22)

 

神に敵対する者/渡邊ミドリ師

ダニエル11章36~39節

 ここで語られている神の敵は、終末に現れる「反キリスト」についての預言でもあります。私たちは惑わされやすい者です。どのようにサタンの罠を見分ければ良いのでしょうか。神に敵対する者は、自分を神とし、高く大きく見せ、思いのままに振る舞います。神の栄光を奪おうとするのです。また、偶像を崇拝し、争いを好み、金銀財宝を愛します。このような者に気を付けなければなりません。この世では絶えず戦争が起こり、悪者が栄え、良い者が苦しみます。しかしそれは主の定められた時が来るまでのことです。その時には終わりの日が来ます。神の民には永遠のいのちに至る道がありますが、悪者は永遠の刑罰を受けるのです。ノアの洪水の時、救われたのはたったの8人でした。出エジプトであれほどの奇蹟を見ても、約束の地に入ることができたのはヨシュアとカレブだけでした。このことを覚え、身を引き締めて自分の信仰を整えなければなりません。

(2022.5.15)

 

喜ぶ母として/渡邊ミドリ師

詩篇113篇1~9節

 ハレルヤに始まりハレルヤに終わるこの箇所は、ハンナの賛歌(Iサムエル2:1~)、マリヤの賛歌(ルカ1:46~)の間を結ぶ歌であると言われています。聖書の中にはなかなか子どもを授かることができず悩む女性が多く登場します。現在も、不妊であったり、生涯独身を通す女性がたくさんいます。そういう人には神様の特別なご計画があるのです。自分の子育てに専念するのではなく、多くの子どもたちの母となる(9節口語訳)ために召されているのです。神様の御目は、人の目線とは違います。主は超越した高みから、途轍もなく低い所にあるこの地を眺め、私たち一人ひとりをご覧になっておられます。そして、埋もれたものを起こし、悩み苦しむ者を高く上げてくださるのです。天の天におられた主イエスは、飼い葉桶という最も低いところに来られ、十字架によって私たちを御国という高みへと連れて行ってくださいます。その希望を持って歩みましょう。

(2022.5.8 母の日礼拝)

 

国を混乱させる不法者/渡邊ミドリ師

ダニエル11章21~27節

 ここには反キリストの先がけとなるような人物が登場します。これはシリヤ、エジプト等についての預言であると同時に、終わりの時代についての予告でもあります。まさに、今日の世界情勢とそっくりです。私たちは聖書の警告に耳を傾け、何を成すべきか悟り、備えをすべきなのです。終わりの世に起こる混乱の背後には、それを操る悪しき霊がいるのです。すべてを破壊する者は、詐欺まがいの巧言で人を騙します。そして神への冒涜の限りを尽くします。私たちは甘言に弱い者です。見抜く力をもって警戒しなければなりません。戦争や不幸をもたらすのは神ではなくサタンであり、私たちの不従順の罪によるのです。サタンは戦争だけでなく、会社や学校、家庭にも諍いを引き起こします。しかし神が黙っておられるのは、定められた時が来るまでのことです。私たちはそれを信じ、聖書の示す通りに行動し、時が満ちるのを忍耐をもって待ちわびましょう。

(2022.5.1)

 

選択のとき「右か左か」/渡邊ミドリ師

創世記13章7~18節

 ここでは二つの家族、アブラハムとロトの一家が進むべき道を選択しなければならないという状況が書かれています。みもみ教会は37年前、この箇所の御言葉に従って、北と南、東と西を見渡し(14節)、縦と横に歩き回り(17節)、たどり着いた地・実籾で開拓伝道を開始しました。私たちは人生の中で様々な選択をします。そんな時、何を基準にして選ぶべきでしょうか。アブラハムのように主に委ねることです。アブラハムは主の命令に従って、行く先もわからずに故郷を後にしました。御言葉に従うなら、何の心配もないのです。一方、ロトは選択の際に祈った気配もなく、見た目を優先し自分の判断に従いました。そのため、後の人生では汚れと偽りに満ちた地で多くの問題に悩まされます。神不在の選択・決断は、必ず後悔することになります。悔いのない人生とは、ただ御言葉のとおり、聖書の示す通りに実行していくことなのです。

(2022.4.24 創立37周年記念礼拝)

 

復活という希望/渡邊ミドリ師

Iコリント15章1、12~19節

 四福音書には、主イエスの十字架の死と埋葬、復活は歴史的事実であることが詳細に記されています。ところがコリントの教会では復活を信じない人々がその事実を否定し、大きな混乱を巻き起こしていました。そこでパウロはこの手紙によって、復活を信じることこそがクリスチャンの本質であり福音のかなめなのだと断言したのです。主イエスの復活はよみがえりの初穂であり、信じる者たちの復活をあらかじめ示すものでした。この章では「聖書の示すとおりに」という言葉が繰り返し出てきます。私たちも聖書のとおりに信じ従えば、なにも難しいことはなく、道をそれることもありません。難しくしているのは私たちのあやふやな信仰なのです。復活の死は勝利であり、永遠の御国への道の踏み台です。それにより、人は死んでなお永遠のいのちへと導かれるという希望を与えられました。私たちもやがて、聖書の示すとおりに回復とリバイバルを経験するのです。

(2022.4.17 復活祭)

 

棕櫚の日曜日/渡邊ミドリ師

ヨハネ12章12~19節

 ここでヨハネは、主イエスを迎えた群衆がいったいどのような人々であったのかに焦点を当てています。彼らは過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに集まった巡礼者で、主イエスの奇蹟を知っていました(17、18節)。そして「ホサナ(今救いをください)」と叫び、主イエスが来るべき「イスラエルの王」であると讃えました。しかし神様のご計画はまったく理解していませんでした。主は人々が望む勇壮な王としてではなく、平和の君として子ろばに乗り、預言(ゼカリヤ9:9)のとおりにエルサレムに入場したのです。思い通りにいかなかった群衆は一瞬にして褒め讃えたのと同じ口で主イエスをののしり「十字架につけろ」と叫びます。私たちも、すぐ傲慢になり、惑わされ、この群衆の中の一人になりかねない者です。しかし、主としっかり向かい合い、御言葉を読み日々祈るなら、聖霊が豊かに働いてくださり、真実を見極める者となることができるのです。

(2022.4.10 棕櫚の日礼拝)

 

二つの国の闘争/渡邊ミドリ師

ダニエル11章3~14節

 人間の世界に罪が入ってからは、戦争が止むことはありません。それは、主イエスが再臨の主として地上に来られる時まで続きます。神が天地万物を創造された時は、すべてが良かったのです。人間の罪が始まったことにより、主は世界の終わりへのご計画を持たれ、黙示録へと至ることになります。神はそれを、選ばれた人を通して啓示されました。聖書の預言は必ず成就します。人間の歴史は神の目の前で起こっているのです。この箇所でダニエルに語られた預言も、ペルシヤ、ギリシヤ、エジプト、シリヤ等において、ことごとく成就しました。ですから、私たちは御言葉を通して、今起こっていることに対処することができるのです。クリスチャンにとって、御言葉は剣です。終わりの日の中で今、主がしようとされていることは、遠い昔にすでに記されています。御言葉によって問題に対峙するなら、どんなことが起こっても、必ず勝利することができるのです。

(2022.4.3)

 

人生の口座が豊かになるために/渡邊真太郎師

ピリピ4章15~20節

 ピリピの教会の人々が物質的にパウロを支えた際、パウロはそれを受け取ったことよりも、彼らの「霊的な口座」(新改訳2017)に貯められる主からの実を喜びました。霊的な口座の目的とはなんでしょうか。これは、他者のために自分の資源を用いることを決断した時に満たされるのです。イエス様は神を愛することと同じくらい他者を愛することが大切だと仰いました。受けるよりも与えるほうが幸いなのです。自分は与えるほど豊かではない、という人もいるかもしれません。しかし、主の目からは与えるという決断自体に価値があります。どんなに小さな援助であっても、満額と見なしてくださるのです。神様は私たちに日々愛と恵みを注ぎ、一人ひとりに使命をお与えくださっています。自分の富、賜物、愛を用いて霊的な口座を豊かにする原則を実践しましょう。それこそが、神様の願われることなのです。

(2022.3.27)

 

主の口から出る言葉/渡邊ミドリ師

イザヤ55章1~13節

 いま全世界で、疫病、戦争、地震など、聖書で終わりの日の前兆とされていることが実際に起こっています。しかしそれは、救いの時でもあります。たるんでいたクリスチャンが目覚める時なのです。これらの事を見て、神から来たことであると理解するクリスチャンは幸いです。人は欲が強く世俗的で、真理を知ろうしません。ノアの洪水の時、警告しても警告しても耳を貸さなかった人は、箱舟に入ることができませんでした。私たちは聖書から答えをいただきながら、主の証人として立たなければなりません。主を信じ従う者には、恵みの契約が与えられています。主は約束されたことを必ず成就させてくださるのです。疑いを持ってはなりません。約束を信じ切るなら、溢れるばかりの祝福がもたらされます。御言葉を聞くだけの者ではなく、実践する者となってください。終わりの日、主は再び来られます。それまでの間、いつも主を求め、待ち望みましょう。

(2022.3.20 新会堂建設10周年記念礼拝)

 

不動の礎/渡邊ミドリ師

IIテモテ2章14~26節

 パウロはこの遺言のような書簡で、どのように信仰を立て上げ何を成すべきだと伝えているでしょうか。まず、主のしもべであるキリスト者は、無駄な論争をしてはならないということです。そのような論争を好む者は、接する人の信仰を神から離します。正しくない議論は、結果的に争いに終わるのです。主のしもべが成すべきことは、主の御言葉をまっすぐに説き明かすことです。それこそが不動の礎です。真のクリスチャンは、御言葉の真理に立つことができ、何があっても動じることはありません。主はご自分に属する者が誰かをよくご存知であり、どのような時にも守ってくださいます。神に属する私たちは、不義を離れましょう。そして反対する人を、柔和な心で諭しましょう。難しいことですが、主イエスの十字架を思えば成すことができます。私たちがまっすぐな信仰と聖い心をもって集うなら、必ず平安と希望が与えられるのです。

(2022.3.13)

 

国の繁栄と衰退/渡邊ミドリ師

ダニエル書11章1~4節

 今日世界で起こっているような侵略戦争は、人類の歴史が始まって以来常にありました。この箇所に書かれている戦いの有様もまた、まさに今起こっていることと変わりありません。私たちクリスチャンは、この歪んだ世界をどう受け止めていけば良いのでしょうか。まずは皆が一致し、イエス・キリストを待ち望む信仰に立ちましょう。そうすれば必ず勝利を獲得することができるのです。歴史がいかに流れても人間の罪が変わらないように、繁栄し高ぶる者の行方もまた、同じ衰退の道であることを知るべきです。預言は必ず成就することを信じましょう。終わりの時代のすべては、ダニエルの時代に既に予告されています。真理を告げ、善と悪を示してくださる方は唯一の神である天地創造の主以外にありません。平和な時にも、御言葉による警告の一つひとつをしっかりと握りしめ、信仰の備えをしていきましょう。

(2022.3.6)

 

国々の興亡/渡邊ミドリ師

ダニエル書10章14~21節

 ここで「人の姿をとった者」として登場するのは、主イエス・キリストです。御言葉を語ることを喜びとする者には、そのくちびるに触れ、主の御用ができるよう導いてくださいます(16節、エレミヤ1:9)。そして御使いもまた、悩みの多い時代である今、主イエスを信じた者を力づけるために遣わされているのです。主は、天上の霊の戦い、すなわちサタンとの戦いについて語られました。私たちの戦いは血肉に対するものではありません(エペソ6:12)。地上での国々の戦いの背後には、霊の世界の戦いがあります。しかし全世界のすべては、神の定めに従って移り変わっているのです。このような戦いに勝利していくのは福音です。たとえ迫害にあったとしても、死を恐れず義の衣を身に着けて勝利を握り、キリストの御旗を掲げて前に進むことができます。クリスチャンにはそのような特権が約束されているということを、忘れないようにしましょう。

(2022.2.27)

 

終わりの日の啓示/渡邊ミドリ師

ダニエル書10章10~15節

 幻を見て気を失ったダニエルに、御使いは語りかけ励まします。このように今も御使いは、私たちを支え助けているのです。ここに書かれている「ペルシヤの国の君」とは、ペルシヤが礼拝する偶像、すなわち悪しき霊です。敵にはそれを助ける悪しき霊がおり、神に仕える者には神の使者がいるのです。終わりの日には霊の戦いが起こります。裁きが神の家から始まると言われているように(Iペテロ4:17)、今も教会に分裂・混乱をもたらし、霊性を妨げようとする悪霊が存在しているということを、しっかりと認識し気をつけなければならないのです。終わりの日の啓示を悟るための備えは、祈りしかありません。ダニエルの信仰の秘訣は祈りです。聖書を開く時には、彼のように心を定めて悟ろうとし、「神様が私に教えていることは何だろう」と真に求めつつ祈ることです。そうすれば、必ず悟りの霊性が与えられるのです。

(2022.2.20)

 

栄光者の顕現/渡邊ミドリ師

ダニエル10章1~9節

 この箇所はダニエルに現れた受肉前の主イエス・キリストの幻です。ダニエルはその幻を前にし、意識を失うほどの畏れを感じました。私たちもいずれ、主イエスの御姿を見ることになるのです(Iヨハネ3:2)。それに備え、クリスチャンの本分をわきまえましょう。まず、自分のことばかり祈らず、ダニエルのように執り成しの祈りをする者となりましょう。そして神の福音を伝える器となるのです。人は何のために生きるのでしょうか。神の栄光を現すためです。私たちはただ死んで終わるのではありません。永遠のいのちを獲得するのです。主イエスを信じたなら、その素晴らしいニュースを語り伝えなければなりません。ダニエルの見た幻は、その場にいた他の者たちには見ることができませんでした。私たちも、世に属する者ではなく、霊に属する者となりましょう。目で見える世界に惑わされず、主との深い交わりを持ち、御足の跡を踏み従いましょう。

(2022.2.13)

 

悟れ!/渡邊ミドリ師

ダニエル9章20~27節

 「七十週の預言」の幻について、ガブリエルはダニエルに何度も「悟れ」と強い言葉で告げています。この預言がいかに重要なことであるか、またこれが、今後私たちに起ころうとしていることでもあるということを、聞く耳を持って悟らなければなりません。七十週の「週」は、七年という意味であり、490年後にイスラエルへの刑罰は終わります。「油注がれた者」とは、主イエス・キリスト、町と聖所を破壊する「来るべき君主の民」とはローマの軍隊です。また、7年の間、「荒らす忌むべき者」反キリストが出てきて大変な猛威を振るうことが預言されています。主の再臨の時、世界には戦争と破壊が充満します。大いなる艱難が起こり始めた時、それを悟る必要があるのです。幸い私たちは祈り、神様の御心を知り、備えることができるのです(ルカ21:28,36)。その時、私たちクリスチャンは携挙され、主とお会いすることができるのです。

(2022.2.6)

 

祈りの模範/渡邊ミドリ師

ダニエル9章1~19節

 このダニエルの祈りには、祈りとはかくあるべし、と言えるような教えがあります。彼はどんなに多忙であっても神の国とその義とを第一としていました。これは信仰の原動力です。そしてエレミヤの預言により、あと3年で捕囚としての期間が満ちることを悟ります(エレミヤ25:11-12、29:10)。私たちもダニエルのように、まず聖書の深さを悟りましょう。そうすれば、自分の生きる道がわかります。そしてそれは歴史をも動かす力となり得るのです。御言葉と深く関わるなら、主との深い関係に導かれます。主は私たちの性質も信仰もすべてご存知ですから、それに相応しい生き方、役割へと導いてくださるのです。ダニエルは祈りの人でした。心から自分の罪を悔い改め、イスラエルのために執り成し、神の憐れみを切に求めたのです。祈りの人となれば、聖霊の働きがわかるようになります。そして主は祈りに答え、私たちにお語りくださるのです。

(2022.1.30)

 

御使いの働き/渡邊ミドリ師

ダニエル8章13~27節

 自分の見た幻の意味を悟りたいと切に願っていたダニエルに、主は御使いガブリエルを送りその解き明かしを告げさせました。心に思っただけで、主は答えてくださるのです。御使いの存在をはっきりと知るのは大切なことです。すべてのものは御子によって造られました(コロサイ1:16-17)。霊的な被造物である天使も、主のご支配の下にあるのです。この幻は、四大国の滅亡についてだけでなく、終末に現れる反キリストについての預言でもありました。今はもう終末の時代です。私たちも、終わりの日が来ることを自覚しましょう。霊的にしっかりしていないと、惑わされてしまいます。主イエスが来られる日に備え、義の衣をまとわなければなりません。クリスチャンは内に住まわれる聖霊の助けによって日々守られていますが、天使もまた、私たちに仕え守る任務を負っています。私たちは決して孤立無援ではないのです。

(2022.1.23)

 

神よ、それは無理です/渡邊真太郎師

使徒10章9~15、34~36節

 ペテロは祈りに没頭し、我を失った状態となっていました。主との時間をトッププライオリティにしていたのです。そのような時にこそ主は、直接御手を伸ばし、大きな方向転換へと導かれます。彼は空腹にも関わらず主の命じられたものを食べるのを拒みました。食物規定に反する物を食べるのは、当時のユダヤ人には到底できないことだったのです。しかしこれは主のご計画であり、正しいことです。「私は主に従い、よくやっている」という霊的満足感は柔軟性を奪います。最終的にペテロはすべてを覆しへり下って主に従いました。私たちも一点を見て拒絶をするのではなく、主が必ず大きなことを成してくださると信じましょう。主が私たちの人生に変化をもたらす目的は、すべて福音のためなのです。自分にはとても無理だと思うようなことであっても、ペテロのように柔軟に主に従うことにより、主のご計画のために用いられる福音の器へと変えられるのです。

(2022.1.16)

 

悔い改めの力/福井智樹執事

ヨブ記1章6~12節、ヘブル4章13~16節、Iヨハネ1章9節

  サタンは日夜、私たちの罪を神に告発しています。サタンは嘘つきですが、御前では根拠があることしか訴えることはできません。その訴えが認められた時、ヨブのように私たちに災いが降りかかることがあります。私たちクリスチャンは十字架の贖いにより、いつでも神の「恵みの御座」に大胆に進み出ることができます。そこで成すべきことは「悔い改め」です。告発された罪を認め御前で悔い改めるなら、サタンの足場を崩し、訴えを無効化することができるのです。悔い改めの必要がない人は誰もいません。義人ヨブでさえその心の持ち方を非難されたように、主イエスが心で思っただけでも罪だと仰られたように、神の基準は途方もなく高いのです。決して自己義認・自己弁護をしてはいけません。私たちには、全ての罪を贖いとりなしてくださる大祭司イエスが共にいてくださいます。起こる全ての問題について常に悔い改め、神からの解決をいただきましょう。

(2022.1.9)

 

献身/渡邊ミドリ師

ローマ12章1~2節

 心を一新するために絶対的に必要なのは信仰です。そして、否定的なことを断つことです。この世、いまの時代は、否定的なことを私たちに勧め、誘惑します。神様を除外した利己的な世界なのです。その背後には悪魔がいます。この世と調子を合わせてはならないのはそのためです。しかし、そのような中にあっても福音が断たれることはありません。皇帝ネロは聖書をこの世から消そうと徹底的に攻撃しましたが、いまも聖書は世界に満ちています。私たちは主イエスの命令を守るため、献身するのです。献身とは、牧師・宣教師などの働き人だけがすることではありません。万人祭司としてすべての信徒が成すことです。イエス様の救いに預かった者は喜びで満たされます。何も変わらないとしたら、何かが間違っているのです。御霊によって自分を本質的に変えていただき、何が神の御心なのか、何が神に喜ばれることなのかを知って、肯定的な生き方をしましょう。

(2022.1.2 新年礼拝)

 

神の約束/渡邊ミドリ師

イザヤ55章1~13節

 神は約束されたことは必ず守ってくださいます。ただし、神の約束にあずかれる信仰が必要です。まず神の御前に出て、御言葉を聞きましょう。そしてそこから教えをいただくことを求めるのです。その時、神の約束である永遠の契約、その恩寵によって私たちは生かされているということに気づくのです。この箇所の「悪者」「不法者」(7節)とは、信仰者でありながら罪を犯している者たちです。しかしそのような者にも主は近づかれ、立ち返りなさい、と御声をかけてくださるのです。どのような者であっても、悔い改めの心を持つなら主は豊かに赦してくださいます。それは人には及びもつかない神の愛なのです。主は私たち一人ひとりに任務を与えてくださっています。たとえ絶望的な悲しみの中にあっても、神の励ましの御言葉が、必ず与えられます。私たちがその御言葉を「信じ切る」ために働いてくださるのが、聖霊に伴った神の力なのです。

(2022.1.1 元日礼拝)

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